また、東国原英夫も、「体罰、暴力っていうのは、教育的指導と恣意的な暴力っていうのと二つに大きく分かれる」「この問題は、恣意的な問題」とし、こう話した。
「教育の問題だと、土田くんが言ったように先生と生徒の信頼関係の問題。先生を信頼して、この先生がゲンコツ、あるいはビンタをしたのは、この先生は僕のことを、私のことを思ってしてくれたんだっていう信頼関係が成立していた時代があった。いつからか、この信頼関係が壊された。信頼できないですよ」
「言葉で言って聞かない場合に、痛みをもって知らせるっていうのは、僕は肯定派じゃないんだけど、これは仕方がない。愛のムチなんじゃないかなって思える部分もあるんだよね」
「蹴らないとわからない奴がいる」と言う坂上に、「ビンタされてもそこに愛があるなら、それは教育的指導」と言う東国原……。このほか、雨上がり決死隊の宮迫博之も「話だけ聞くと先生のほうがすごい悪いように聞こえますけど、本当はどうなのかなっていうのが実際わからないので。どこまでその生徒の子は言うことを聞かなかったのか」と述べるなど、スタジオの流れは完全に“体罰容認”となっていったのだ。
はっきり言って、圧倒的に力が強い者が暴力によって言うことを聞かせるという行為に、良し悪しなどあるはずがない。だいたい、この事件で児童が死亡、あるいは教師からの恫喝によって自殺をはかっていたら、それでも彼らはこんな話をしただろうか。
このように、体罰を原因にした死亡事件や生徒の自殺問題がどんなに起こっても、一向になくならない「体罰は必要」論。そればかりか、「ゲンコツをくれた先生はじつは人気者だった」(土田)、「軍人上がりみたいな怖い先生がいちばん好きだった」(坂上)など、美化さえしていた。
だが、体罰に対するこうした“語り”があるからこそ、体罰はなくならないのだ。体罰問題を長く取材してきたノンフィクション作家・藤井誠二は、著書『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)で、こう綴っている。
〈授業中や運動部の活動の中で体罰を受けて育った大人たちは、時間が経つにつれてその経験を楽しかった思い出として美化し、それが世論を形成する。そのとき、今この瞬間に体罰を受けている子どもたちの苦しみは置き去りにされている〉
〈体罰を容認・肯定する語りには、常に殴る側の視線しかなく、殴られる側のそれがない。同じ程度の体罰を受けても何も感じない子どももいれば、深く心に傷を負う子どももいる、感受性は人によって異なるという自明の理も排除されている〉