『本当はエロかった昔の日本 古典文学で知る性愛あふれる日本人』(新潮社)
昨年は、20万人以上の来場者を記録した永青文庫『春画展』をきっかけに、突如「春画ブーム」が巻き起こった年であった。各メディアでも「春画」を扱った特集が続々と組まれ話題を集めた。そういった状況下、「春画」を掲載したことが「家庭に持って帰れる雑誌」という雑誌コンセプトを逸脱したとして、「週刊文春」(文藝春秋)の新谷学編集長が上層部から3カ月の休養を言い渡された騒動が起きたことも記憶に新しい。2月からは京都の細見美術館で『春画展』が開かれる予定。これまで見るチャンスのなかった関西の人々の目に触れることで、今年も「春画」再評価のトレンドは続いていくことだろう。
そのように、「江戸時代の人々が醸成したエロティシズム」にスポットライトの当たる昨今だが、古典文学を題材にしたエッセイを多く著し、ちくま文庫から『源氏物語』の現代語訳も出版している古典エッセイストの大塚ひかり氏は、新著『本当はエロかった昔の日本 古典文学で知る性愛あふれる日本人』(新潮社)のなかで、江戸時代のエロ文化をこう評価している。
〈平安古典を読み慣れた目で江戸時代の古典文学を読むと、エロはエロでも、私に言わせれば「嫌なエロ」になっている。
たとえば井原西鶴(1642〜1693)の『好色一代男』(1682)などは、主人公の世之介が何人とヤッたかという数やシチュエーションの多様さを誇っているだけに見える〉
「嫌なエロ」は『好色一代男』だけではない。弥次さん喜多さんでおなじみの『東海道中膝栗毛』では、「女の小便の音に興奮した馬方が彼女をレイプ。騒ぐ声を抑えるために餅を口にねじこんだら彼女が『最つとくれろ』と言ったので、さらに餅を口に押し込もうとしたら、今度は間違えて馬糞を口に突っ込んでしまった」。こんな筋のエピソードが「笑える話」として人々に受け入れられていた。「春画には女性蔑視の考えはない」と言われ、前述の『春画展』にもたくさんの女性が来場していたのだが「女性蔑視の考えはない」なんてとんでもない。江戸文化におけるエロティシズムは「ミソジニー」や「セクハラ」に満ちていたのである。
一方、それと真逆の価値観をもっていたのが平安時代である。本当の意味で日本が「性」に関する芳醇な文化を誇っていたのは、江戸の庶民文化ではなく、平安時代に花開いた宮廷文学なのだ。