山里と井上、又吉と西野、その違いはおそらく、主戦場のテレビ以外の活動がお笑いにフィードバックできているかどうか、だろう。
山里や井上、あるいは劇団ひとりなどは他ジャンルに進出しても、お笑いでの活動と地続きになっているため、他ジャンルの成功がプラスに働く。ところが、又吉、西野の場合は、他ジャンルでの活動がお笑いと違うベクトルをもっているため(『火花』は主人公がお笑いコンビなだけで、ピースの笑いの要素はかけらもない)、逆にお笑いにマイナスに作用してしまうのだ。
又吉なんて小説家として大成功しているんだから別にいいじゃないか、と思うかもしれないが、そうともかぎらない。お笑いと小説、表現のベクトルは違っていても、世間の人気や評価は無関係ではいられない。お笑い芸人として、面白くないという烙印が押されてしまうと、小説の評価が下がる可能性もあるし、逆に小説の2作目がこけたら、お笑い芸人として完全に終わってしまう可能性だってある。お笑いにはマイナスにしか作用しないのに、無関係ではいられない。ある種、お笑い芸人としては爆弾を抱え込んでしまったといってもいい状態なのだ(すでに西野はその爆弾が破裂してしまったということかもしれない)。
もっとも、爆弾を抱え込んでいるという意味では、越境が成功している山里や井上だって同じかもしれない。今はたまたま、炎上をうまくお笑いにフィードバックしているが、それだって飽きられたらおしまいだからだ。結局、奇襲に頼っているかぎり、常に新しい燃料を探し続けなければならない。
その意味でいうと、山里世代は〈異様な進化を遂げたモンスター〉というより、『ナカイの窓』で山里が自虐的に語った「小器用」という表現がやはりしっくりくる。少なくとも、彼らが下克上を起こし、「お笑いビッグ3」や「お笑い第三世代」にとってかわることはかなり難しいだろう。
(新田 樹)
最終更新:2016.01.02 04:04