映画を見た多くの人が感じたのではないかと思うが、この映画を見ていると、スクリーンを越えて、まるで実際の戦場に引きずり込まれるような感覚を覚える。田村や他の日本兵たちが経験しているあまりに過酷な環境を見続けることで、次第にその惨状に慣れてしまい、自身もまたひとりの兵士になり、そこで茫洋と生死の境目を行き来しているかのように感じるのだ。それくらいこの映画は見る者の心を掴む。
塚本晋也は『野火』の映画化を、8ミリカメラを回し始めた10代のころから漠然と思っていたというが、その動機について以下のように語っている。
「映画化しようと思った根本的な動機は、やはり大自然のものすごい美しさと、その中で人間だけがどろどろになって、とても不可思議な、不可解な行動をしているという、その不可解な行動こそが戦争だということを描きたかった」(「インタビュー塚本晋也 戦争の“痛み”を伝える――映画『野火』を撮って」 すばる 2015年9月号)
塚本は「不可解な行動こそが戦争」と語っているが、この映画で描かれる「戦争」の不可解さは熾烈だ。原作の最重要テーマである「人肉食」や、非戦闘員である原住民殺しはもちろんだが、それ以上に見るものを容赦なく責め立てるのは、銃撃により、兵士たちの身体が損壊していくさまである。ある者は空からの爆撃をくらって顔の半分が削がれ、また暗闇のジャングルの中、祖国に帰りたいと逃げまどう日本兵たちがアメリカ軍からの集中砲火を浴びるシーンでは、銃撃によって手足はもげ、腹が裂け内臓はむき出しになり、脳漿が飛び散る。あの戦争は国を守るために、家族を守るために勇敢に戦った、勇敢な男たちの戦いだったのだ、というような上っ面の「物語」はここにはない。
レイテ戦では参加した日本兵の97%にあたる約8万人が戦死したと言われる。「大東亜共栄圏」の名のもとに、フィリピンをアメリカから解放するという名目で占領したが、キリスト教を信仰し、英語を話すフィリピン人たちを「愚民」と見下しながら、異文化を理解もせぬまま行った失政や、残虐行為、食糧などの収奪のせいで激しい抵抗にあい、抗日ゲリラとアメリカ軍を相手にせざるをえない状況の中戦況は悪化し、兵士たちはこの映画のような末路をたどった。例えばアメリカ軍に追い詰められ、畑から芋を盗んで命をつないだ第16師団のある兵士は、以下のように語っている。
「彼ら(フィリピン住民)の芋畑見付けて芋掘りですわ。その頃、住民は日本兵の死体から銃をとって自警団を作っていたんです。芋をとりに行ったら、撃ってくるんです。そして日本兵が倒れたらすぐ住民が出てきてね。蛮刀っていってましたけど、ブッシュナイフね、あれで手切ったり、足切ったり。あちこちに手足のない日本兵の死体が転がっていた」
「村人は日本の兵隊を、そんだけ恨んでおったんだと思います。僕もゲリラを殺してますし、集落襲って食糧をとりにいって、村人を何人も殺してますし。それは恨まれて当然やったんでしょうけどね」(「ドキュメント太平洋戦争 踏みにじられた南の島 レイテ・フィリピン」 NHK取材班編 角川書店)