そして、8月28日に原案が公開され、2回の修正が施されていた事実が公表されたことで、その疑惑はさらに深まった。というのも、原案はデザインもコンセプトも最終案とはまったくちがうものだったからだ。
組織委は、選ばれた佐野氏の案が海外の企業の商標と類似点があったため、佐野氏に作品の修正を依頼したと説明しているが、この時点ではまだ、世間には公表されておらず、類似のデザインがあるなら、佐野氏のデザインをあきらめて、次点の作品に切り換えるという選択肢もあったはずだ。しかし、組織委はそうはせず、一から佐野氏にやり直しをさせた。
コンセプトのまったくちがうものを一から作り直すことが許されるなら、コンペをやる意味などない。これはやはり「コンペはまず佐野研二郎ありきだったのではないか」と考えざるをえないだろう。
「類似のデザインが見つかった時、別のデザイナー案を採用せず、佐野さんにそのままデザインを修正させるという判断をしたのも、永井さんのようです」(前出・グラフィックデザイン関係者)
では、永井氏はなぜここまで、佐野研二郎氏にこだわったのか。それは、おそらく巷間いわれているような、佐野氏が博報堂時代に師事していた上司の父親、ということではないだろう。
それは、佐野氏が永井氏の五輪デザインへの思いを代わりに具体化してくれるデザイナーだったからではないか。
永井氏は会見で、選考理由について、「優れた展開力に富むデザイン」であることを強調。「みなさんはひとつのロゴだけで見ているかもしれないが、このエンブレムが色々なことに使われるようになると、なるほどと納得するはず」と熱く語っている。
だが、このエンブレムの「展開力」というのは、何年も前からの永井氏の持論だった。周知のように永井氏は、亀倉雄策の盟友で、亀倉が手がけた1964年の東京五輪のエンブレムデザインにも協力し、その後の札幌五輪では、亀倉のコンセプトを継承するかたちで自らエンブレムデザインを手がけている。
その永井氏は2016年東京五輪の招致活動の頃から、インタビューや講演等で、亀倉の東京五輪や自らの札幌五輪の公式マークがいろいろな形で展開されるデザインであったことを強調し、自分たちがかかわっていない長野五輪がトータリティのないばらばらなデザインになったと批判。来るべき東京五輪では統一されたポリシーのもとに、ハイクオリティなデザイン展開をすべきだと主張していた。