さらに、テロルが個人の枠を超えて、より多くの人を無差別に巻き込む破滅、つまり“カタストロフ”に接続されるような作品も、同時期に流行することになった。
たとえば、07年には、31歳(当時)のフリーター・赤木智弘が「希望は、戦争。」として発表した論文が物議をかもすなど、閉塞感を打ち破るものとして“戦争”が求められたが、こうした世相を、やはりマンガは予言していたというのである。
その作品とは1997年に「月刊アフタヌーン」(講談社)誌上で連載開始した、遠藤浩輝のSFマンガ『EDEN』である。著者にとって、赤木のような “戦争待望論”とも受け取れるモチーフは「出るべくして出る主張」だったそうだ。なぜなら『EDEN』には皆殺し戦争と大地震によってこの沈滞しきった世界をリセットしたいという暗い欲望がみなぎっていたからだという。
〈ここには、暴力によって既成秩序を破壊したいという願望よりもさらに病んだ、戦争によってみながひとしく死に直面させられる平等状態を夢見る気分が反映しています。戦争とは、テロル(恐怖)が日常になることです。つまり、テロリズムによって戦争と同じ死の恐怖が希薄に蔓延する現在の世界情勢を、このマンガはかなりはっきりと予感していたわけです〉
そして、2011年、実際にカタストロフが訪れる。いうまでもなく東日本大震災と福島の原発事故である。実際、大災厄が起きてみるとそこには解放的な気分はあまりなく、国家への不信と言いようのない閉塞感が膨らむばかり。
しかし、この3.11後の状況も、予言していたマンガがあった。09年から「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)で連載が始まった『アイアムアヒーロー』(花沢健吾)である。中条は本作の以下の場面に着目する。
〈花沢健吾の『アイアムアヒーロー』では、主人公と行動をともにすることになる女性が、ゾンビから逃げた生存者が作ったビルの上の防衛基地と、ゾンビがうようよいる下の世界を比べてこういいます。
「…こっちと、あっち…どちらがマシなんだ」
これほど悲惨な世界を描くゾンビものですが、極限的な悲惨と滑稽は紙一重です〉
こう読むことができる。震災の原発事故によって、故郷を失った東北の被災者に対し、たとえば、東京で暮らす人々はどうだったか。放射能の汚染の核心を伝えないマスメディアに対し、不信感を募らせ、半ばパニックに陥り、西へ西へと「避難」していった知識人もいた。ある者はその光景に戦慄し、またある者は嘲笑した。その状況を示唆する装置が、すでにその2年前に『アイアムアヒーロー』のなかでは用意されていたのだ。