そう考えると、今、ネットやテレビで起きている「出版を許すな」コールは、必ずしも遺族の感情によりそっているわけではないのかもしれない。遺族の名前を借りて正義をふりかざし、快楽にひたる流行の「ジャスティス・ハイ」と、その圧力に押され、炎上に怯えたテレビ特有のアリバイ的コメントがそういう空気を作り出しているだけなのではないか。
しかも、そのベースには、「異物の包摂より排除」という今の日本社会のメンタリティがある。犯罪を犯すモンスターと犯罪を犯さない普通の人間があらかじめ決まっていて、そこには明確な線引きがある。モンスターには居場所を与えてはいけない。そういう空気が社会を支配している。
だが、ほんとうは、猟奇犯罪はけっして私たちと無縁なものではないはずだ。10代の多感な時期は誰もがコントロールできない自意識と性衝動に悩み、苦しんでいる。一歩間違えれば、自分も犯罪に走ってしまうのではないかという恐怖に怯えながら、ぎりぎりのところで踏みとどまっている者も少なくない。少年Aや西鉄バスジャック事件犯、そして、佐世保の女子高生や名古屋大学女子学生が抱える闇は、私たちの抱えている闇と地続きなのだ。
だからこそ、ドストエフスキーの『罪と罰』からカミュ『異邦人』、カポーティ『冷血』、さらには三島由紀夫『金閣寺』、中上健次『蛇淫』まで、古今東西、犯罪者の心のうちを扱ったさまざまな文学作品が生まれ、読者の心をつかみ、その孤独を救ってきた。そういう意味では、自らの性癖、障害について向き合った元少年Aの『絶歌』がどこかにいるもう一人の少年Aを救う可能性もある。
だが、今の社会はそうは考えない。犯罪者は自分たちとはちがう。一度、犯罪を犯した人間には厳罰を与え、更生の機会を与えず、徹底して社会から排除していくべきだ。本を出すなんてとんでもない。
筆者から見ると、本を出して自分と向き合った元少年Aよりも、この無自覚な集団ヒステリーの方がずっと不気味な気がするのだが……。
(エンジョウトオル)
最終更新:2015.06.17 06:46