カウンターカルチャーを、「本流ではないもの」を好むサブカルにとって、浮かれた人が大勢いるフェスに行くような行為は、「サブカルではなく単なるミーハー」。ちなみに、吉田豪氏といえば、日本最大級のアイドルフェス『TOKYO IDOL FESTIVAL』に、現場でしか買えないローカルアイドルのCDを漁るため、毎年物販スペースに現れることで有名だ。
そんな、『モテキ』における、サブカル的アイコンへの理解の薄さは、宇多丸氏も『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』(TBSラジオ)内の映画評論コーナー「ザ・シネマハスラー」内でこう批判している。
「途中でさ、『ももクロもAKBもスマイレージも全部構造は同じだ』みたいなことを言われて主人公が『はぁ』なんて納得するんだけど…。いや、違うけど! 全然違うけど!」
「自分のことをサブカルって自己規定している人なんているか?とも思うしね。『俺のサブカルトーク全部打ち返してくれるよ』って言う?」
ロマン優光氏は、『モテキ』という作品をバカにしているわけではない。ただ、「手法的には、しっかりとした技術に支えられた正統派の漫画」であり、作品のテーマについても「作者の体験や恋愛観に根ざした、ちゃんとした色々な人が身につまされるであろう恋愛観を描いた作品です。サブカル的と言えるほど、一般的でないテーマを扱っている作品だとは思えません」としているだけだ。
要するに、作品の質云々の問題はともかくとして、単にサブカルチャー的なアイコンを散りばめただけでは「サブカル」と呼ばれる作品にはならないということなのだ。
そして、『モテキ』のような作品が「サブカル」として一般に受け止められてしまうほど「サブカル」という言葉の意味が変わってしまったことについてこう記述している。
「サブカルとヲタクの違いというのは対象そのものの違いではなく、情報に固執するか、対象に固執するかのアプローチの差にあるのではないかと私は思っています。(中略)膨大な量の知識を管理していて初めて情報を弄ぶことができるのです。自称・サブカルの人たちの中には発信&整理された情報を消費しているだけで、そこから自分でそれをいじって遊ぶことができません。いじるだけの知識に欠けてるからです」
「サブカルの持ち合わせるスノビズムというものは嫌らしいもので、ヲタクの持つフェティシズムのキモさと同じくらい不快なものですが、それだからこそ生まれるストイシズムと美学というものはあったはずです。
それがなくなったとしたら、存在する意義があるのでしょうか。サブカルという言葉の意味が空洞化し、文化風のミーハーを指すようになったとするなら、かつてのサブカルが持っていた良質な部分を表すのに新しい言葉が必要なのかもしれません」