だが、これを“答え”とするのは非常に危険だ。〈どんな事情があっても“いじめるほうが一〇〇%悪い”のです。これは「いじめ」の原理・原則です〉。そう述べるのは、教育評論家の“尾木ママ”こと尾木直樹氏だ。
〈いじめられっ子側の問題を指摘して、いじめを正当化しようとするムードがあります。これは、とんでもない間違いです。虐待は一〇〇%虐待する側が悪いのです。心理的虐待である「いじめ」も虐待する側に一〇〇%の非があります。まずは、そこから出発しなければ、今日のいじめ問題は解決を図れないのです〉(『尾木ママの「脱いじめ」論』PHP研究所)
この尾木ママが述べるような“100%いじめが悪”という言説自体にFukaseは抵抗を示しているのかもしれないが、これを前提にしなくては、いじめは解決しないのだ。──だが、疑問なのは、なぜFukaseはいじめられた経験があるにも関わらず、“いじめられる側にも非がある”というような、いじめ肯定論に肩を貸すような話をするのか、という点である。じつはここに、いじめのカラクリが隠されている。
社会学者の森田洋司氏は『いじめとは何か 教室の問題、社会の問題』(中央公論新社)のなかで、いじめの構造を〈いじめとは相手に脆弱性を見出し、それを利用する。あるいは、脆弱性を作り出していく過程である〉と述べている。いじめられる側はいじめる側によってつくられた、いじめを肯定する構造のなかで弱い立場に追い込まれ、孤立する。そのうち、いじめられている本人も「自分にも悪いところがある」と思わせられていく……という。
いじめられた自分にも悪いところがあった。こうして“信じさせられた”結果が、Fukaseの“いじめられる側にも非がある”論につながっているのではないか。さらに現在、その内省が《「世界」のせいにしちゃダメ》という、“いじめの否定の否定”というこじれた論理になったのではないか……そんなふうにも思うのだ。また、このねじれを「ただの中2病だ」と片づけることは、それもまた、いじめ問題を当事者に押しつけることになるのではないだろうか、と。
Fukase自身も、前述の「天使と悪魔」の歌詞の最後で《否定を否定するという僕の最大の矛盾は/僕の言葉 全てデタラメだってことになんのかな?》と綴っている。デタラメではない、それもまた当事者の声だ、と筆者は思う。ただ、その思いも踏まえた上で、あるいは乗り越えた上で、“100%いじめが悪”とFukaseは声を大にして言わなくてはいけないのではないか。
とくに、セカオワはセンシティブなリスナーが多いように見える。ファンのなかには、いじめのターゲットになっている人もいるかもしれない。少なくとも、そういう人たちに対して《戦うべき「悪」は自分の中にいる》と追い詰めることは、決してFukaseの仕事ではないはずだ。
(大方 草)
最終更新:2017.12.23 06:45