宮城県名取市の公式サイト「市長のコラム」より
東日本大震災の発生からもうすぐ4年。
被災地では災害公営住宅の建設が遅々として進まない一方で、東京都では“オリンピック利権の象徴”ともいえる旧国立競技場の解体作業が始まった。また、原発事故に見舞われた福島県では今なお、12万人超の被災者が県内外で避難生活を余儀なくされているにもかかわらず、安倍政権は再稼働に前のめりの姿勢を崩そうとはしない。
その姿は、「白河以北一山百文」などという言葉をもち出すまでもなく、いかにこの国で「東北」という地域が軽んじられてきたかを如実に表しているが、この政府・自民党の「東北軽視」の姿勢に苦悶しているのが被災地の自治体だ。
鳴り物入りで設置された「復興庁」は未だその調整機能を発揮できず、日本各地で相変わらず復興予算の不正流用が続く一方で、被災による人口減や流出で財源が枯渇し、機能不全に陥った被災自治体の職員は疲弊しきっているという。が、そんななか、震災発生から4年目を迎え、被災者や地元住民から総スカンを喰らっている自治体の長がいる。
ほかでもない、約800人もの犠牲者を出した“閖上の悲劇”を引き起こした宮城県名取市の佐々木一十郎市長(65歳)である。
名取市では地震発生当時、津波からの避難を呼びかける防災無線が故障。さらには市の広報車による避難勧告、避難誘導も一切行われなかったことから、当時、閖上地区にいた約4000人の住民のうち、実に5人に1人が犠牲となった。
こうした杜撰な名取市の防災体制に疑問を持った閖上の遺族が震災後、佐々木市長に対し3回にわたって公開質問状を提出したが、市長は一度たりとも、それにまともに答えようとしなかった。この市長の態度に業を煮やした遺族らは約4000人の署名を集め、「第三者検証委員会」の設置を求め名取市議会に請願。2012年12月に全会一致で採択されたが、検証委の設置に極めて消極的だった佐々木市長の意向を反映したのか、実質的な調査が始まったのは震災発生から2年半が経った13年9月だった。
そして14年3月、第三者検証委は最終会合で、名取市の姿勢を「地域防災計画の軽視である」と厳しく批判し、防災無線の故障については「名取市の同報系デジタル行政無線は、東日本大震災で致命的なほど用をなさなかった」と断罪。さらに2年半もの間、本格的な調査を行わなかったことについて、「問題を放置してきたという意味で、それ自体に大きな問題があると言わざるを得ない」と指弾した。
ところが、佐々木市長はこの検証委の調査報告を真摯に受け止め、自ら職を辞するどころか、それを今後の防災体制に活かそうという姿勢すら見せなかったことから、遺族の怒りが爆発。14年9月、生後8カ月の息子ら4人を津波に奪われた遺族が名取市を相手取り、約6800万円の損害賠償を求める訴訟を仙台地裁に起こした。が、その訴訟でも名取市側はいまだに「市に責任は無かった」と強弁している。