中沢は、自身が『ゲン』で描いた惨状にも、「まだ網膜に焼きついている本当の姿が再現できず、悩みつづけていた」。そして「「こんな甘い表現がそんなに心に迫っているのか?」と反対に不思議だった」という。だが、やけどにウジが這い回る描写や、死体が腐乱する様子を描き進めると、中沢の周囲の人間は不快感を増大させていった。そこで、気味悪さだけで大事なストーリー展開を読んでくれなければ意味がないと思いなおし、「不本意だが描写方法を変えようと決めた」のだという。つまり、我々が今読むことのできるあの『ゲン』ですらも、現実より「甘い」ものだったのである。
戦争や核兵器の悲惨さ、人の命の尊さ、それが奪われることへの怒り。こうしたものは、「○月×日に△△で空爆がありました」「邦人の人質が殺害されました」などというストレートニュースだけでは伝わらない。とりわけ、ベトナム戦争では、フォトジャーナリストや映像ジャーナリストらによる衝撃的なイメージ──銃弾に倒れるアメリカ兵、火炎放射機で焼き払われる民家、女性や子どもらを含むベトナム人虐殺など──をもってして戦禍が生々しく報じられた。その “戦争の姿”が、当初9割以上が参戦を肯定していたアメリカ国内で反戦のムードを高め、結果として戦争終結へと大きく世論を傾かせたのは有名な話である。
もちろん、戦争報道にはいくつもの倫理的問題点が指摘されている。だが、「死体」の力が人びとの心に“殺人のリアリティ”を生み、戦争への拒否感を喚起させるのもまた事実である。現に、アメリカ政府は“メディアが終わらした戦争”という側面があったベトナム戦争を「反省」し、湾岸戦争では徹底的な報道管制と検閲を行った。つまり、“目障りな反戦世論”を潰すために、自由な報道を抑制し情報をコントロールしたのだ。
当然、だからといって、今回のイスラム国人質事件に関する“画像・動画”も見せるべきだとするのは短絡的かもしれない。今月18日にも、三重県桑名市で授業中に自らパソコンを検索し、事件の関連画像を閲覧した小学5年生11名が「気持ちが悪い」と訴え、保健室へ行っていたことが市教育委員会から発表された。担任教諭が教室を離れていた際に起こったことだったという。
ひっきょう、教育問題としての「残虐画像」問題については、子供の学年や状況を見ながら慎重に議論すべきだろう。しかし、戦後日本において、戦争や紛争に対する想像力は、日に日に欠乏していっていることを忘れてはならない。
「残虐だから」の一言で、現実が都合良く覆い隠されてしまう危険性を認識する必要がある。
(梶田陽介)
最終更新:2017.12.13 09:32