そして、昨年夏の合併号には第三弾として、たかじんの長女の手記を掲載する予定だった。すでに原稿も完成し、さくら夫人がたかじんと同居していたマンションを訪ね、取材を申し込んでいたという。ところが、校了直前、事態が急転する。「宝島」にはこんな関係者のコメントが掲載されている。
「(さくら夫人に取材を申し込んだ)その直後に、編集部からストップがかかり、取材班は大阪から撤退。記事掲載も見送られたのです。表向きの理由は『さくらと長女は現在、遺産をめぐって係争中で、法務(部門)が係争中の案件を記事にするのはまずい、と難色を示した』というものでした(中略)編集部内でそんな“理由”を信じる者は誰一人、いませんでした。
これは後になって社内で分かったことですが、取材班がさくらに取材を申し込んだ直後、百田さんから新谷(学『週刊文春』)編集長の携帯に直接、電話があったそうです。おそらく、さくらから依頼を受けてのことでしょう」
百田はこの時、すでに「文春」で小説を連載することが決まっており、しかも新谷編集長とも個人的にも非常に親しい間柄だった。そして、この5ヶ月ほど前にさくら夫人と出会い、『殉愛』の取材で頻繁に会っている時期だった。
つまり、それまでさくら夫人叩きの急先鋒だった「文春」は、百田がさくら夫人のバックにつき、1本の電話を入れられただけで、手のひらを返してしまったのだ。しかもその後、『殉愛』で百田から「(文春の記事は)捏造」「真っ赤な嘘」とまでいわれても、一切反論をせず、逆に百田の手記を掲載、15年1月1・8日特大号から連載小説「幻庵」を予定通りスタートさせた。
一方、13年9月からやはり小説「フォルトゥナの瞳」を連載して単行本化した「週刊新潮」も、なんとも不可解な動きをしている。
「新潮」も当初は「文春」と同様、ネット上で『殉愛』の嘘や捏造、さくら夫人の結婚歴が明らかになっても、一切沈黙を守っていた。ところが、14年12月18日号で突然、「故やしきたかじん『遺族と関係者』泥沼の真相」という記事を掲載したのだ。
この記事は一応、たかじんの娘にも取材するなど、検証記事の体裁をとっているが、実際は百田とさくら夫人の言い分に丸乗りしたもの。ネットで投げかけられてきた疑問にはほとんど答えておらず、何の反論にもなっていないものだった。
それもそのはず。「宝島」によると、この記事も百田本人から持ち込まれたものだった。ただ、百田の提案は最初、「百田単独反論インタビュー企画」だったらしい。
しかし、この状況で百田の一方的な主張を掲載すれば大きな批判が予想される。そこで苦肉の策として「検証記事」の体裁でさくら夫人を登場させるという線で百田を説得したところ、百田は「さくら夫人だけの単独告白記事」を要求。その線で話がまとまったのだという。