他にも、たかじんの娘・Hさんは「偲ぶ会」で野次を飛ばしたと書かれたことなど、いくつかの『殉愛』の記述が事実無根であると主張しているが、これらの疑問には答えないまま沈黙を守っている。
それにしても、「文春」と「新潮」の記事を読むと、いかに文藝春秋と新潮社が百田に気を遣っているかがよくわかる。そもそも、Hさんのメール内容にしても、これは『殉愛』が書いたことなのだ。なのに「新潮」では、このメール問題を検証する箇所でそれが『殉愛』の記述であることをまったく触れていない。しかも前述したように、百田はたださくら夫人からの伝聞で書いたに過ぎないのだ。いくら擁護記事だとしても、メールの真偽について百田に一言くらい聞いてもいいはずだが、それすらもしないのである。要は、百田に不都合なものはすべて排除したのだ。きっと、「新潮」や「文春」にとってみれば、さくら夫人が語ることが本当なのかどうかなど、もはやどうでもいい話。ただただ百田を守りたいだけというのが本心なのだ。
重ねていうが、今回の「文春」「新潮」で展開した百田の主張は、本質的な問題の反論にはなっていない。相変わらずの嘘の上塗りとごまかし、そして都合の悪いことは無視。そんなものを擁護して一方的な記事を垂れ流す「文春」「新潮」は林真理子が指摘した通り「もうジャーナリズムなんて名乗らない方がいい」だろう。
それはもちろん、この後、相次いでさくら夫人の擁護記事を載せる予定の「フライデー」(講談社)や「フラッシュ」(光文社)も同じだ。いくら本が売れないからといって、一人の売れっ子作家にここまですがり、事実をねじ曲げてでもその作家を守ろうとする──。彼らは自分たちの姿をみっともないと思わないのだろうか。
(田部祥太)
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最終更新:2014.12.17 07:15