マネージャーのKに対してはもっと辛辣だ。マネージャーとは名ばかりで、ただの運転手だった、ミスばかりしていた、仕事ができなかったという悪口を繰り返したうえで、未亡人の証言で手術の翌日に女遊びをしていたといったエピソードを暴露する。また、あとがきではわざわざ「Kの裏切り」として、テレビ局に勝手に追悼番組の許可を出し、看板料を請求していたことを記述。さらには、事務所の「帳簿をいじっていることが判明した」「一千二百万円近い使途不明金があることが明らかになった」「大阪のマンションから、たかじんの私物のいくつか、それに金庫の中の多額の現金が紛失していたのだ」と、まるでKが犯罪に関与しているかのような書き方をしているのだ。
もちろん、これまでの夫人を批判した週刊誌報道には誤報もあるだろう。だが一方で、未亡人が母親にたかじんの死を知らせなかったことや、テレビ局から看板料をとっていることなど、明らかな事実もいくつもある。それらをひっくるめて「捏造」と決めつけ、故人の娘や元マネージャーをここまで非難するのは、あまりに一方的すぎるだろう。
しかも、驚かされるのは、これらの記述の多くが未亡人の証言に丸乗りしただけで、“ウラ取り”されている気配があまりないことだ。本文を読んでも“捏造”と決めつけた記事の具体的な論証さえ行っていないケースがいくつもある。
百田自身は本書のエピローグで「読者にはにわかに信じられないかもしれないが、この物語はすべて真実である」と大見得をきっているが、その根拠としてあげているのは以下のことだけなのだ。
「家鋪さくらの記憶力は異常ともいえるほどで、日をずらして質問しても、何度質問しても記憶がぶれることは一度もなかった」
これを“ノンフィクション”だと称しているのだから笑ってしまうが、となると、当然“捏造”よばわりされた「週刊文春」、そして守銭奴呼ばわりされた娘や、犯罪者扱いされた元マネージャーKが、これから百田本に大々的に反論する可能性はあるのだろうか。