ニーチェの場合には、なおさら注意しなければならない。彼は西洋のキリスト教文明そのものを転覆するという大志を抱いて著作活動を行っていたのであり、その思想は本来、相当に「危険」なものだからである。例文で挙がった「意志」「解放」「自由」にしても、ニーチェにおいて意志とはすなわち権力への意志であり、解放とはすなわち卑賤で隷属的なあらゆる道徳からの解放であり、自由とはすなわち既存の人間を超越した新しく高貴な人間(超人)の自由のことだ。すなわち彼が語る言葉はかなりイッちゃっているということであり、キティちゃんが語るような微温的な「ありのままで」風自己啓発メッセージとは似て非なるものなのである。
とはいえ、それだけなら単に「ニーチェは誤読されている」という話である。たしかに昨今の自己啓発的ニーチェは、愛読者にとっては噴飯モノの誤読であるに違いない。しかし、そもそもニーチェは昔から誤読されつづけてきたということも、よく知られた事実である。これまで体制だろうと反体制だろうと、みんな好き勝手にニーチェを解釈してきた。明らかな誤読はもちろん嘆かわしいことだが、それは今に始まったことではない。
だから、真の問題は、ニーチェが誤読されているという事態そのものというよりも、なぜいまキティちゃんがニーチェを語らなければならないのか? そして、なぜニーチェはキティちゃんの助けを必要とするのか? ということになる。これについての私の仮説を述べて、終わりにしよう。
キーワードは、権威主義と属人主義である。インターネットを筆頭とするIT技術の爆発的普及は、ジャーナリストのニコラス・G・カーが「浅瀬」と呼ぶような、快適な情報環境が私たちにもたらした(『ネット・バカ──インターネットがわたしたちの脳にしていること』青土社)。しかし、この情報の浅瀬は、別の問題を引き起こす。ネット掲示板やSNSの影響で、いわゆる「未編集」の情報の占める比率が高まるにつれて、情報の信頼性をどのように判断したらよいのかわからなくなるという問題である。
その結果どうなるか。ネット掲示板やTwitterなどのSNSの爆発的普及が私たちに教えるのは、IT技術による情報の自由化が、権威主義や属人主義といった旧弊から私たちを解放するどころか、かえってそれを強化してしまうということだ。玉石混淆の情報洪水に呑み込まれた私たちには、情報の信頼性を丁寧に吟味する余裕などない。そうすると、既存の権威に盲従する権威主義と、情報の中身ではなく発話者にだけ注目する属人主義という、あからさまに前時代的な尺度が回帰してくるのである。
そう、『ハローキティの“ニーチェ”』こそ、情報の浅瀬が引き寄せた権威主義と属人主義の結婚の究極形なのである。そこでは、権威主義をニーチェが引き受け、属人主義をキティちゃんが引き受けるという形で、時代の要請を反映した究極の「いいとこ取り」が目指されているのだ。もちろん、究極的な形だからといって必ずしも受け入れられるとはかぎらない。かえって「あざとすぎる」と敬遠されてしまうかもしれない(実際、時代の要請を突き詰めていくと、こんなネタなのかマジなのかわからない代物になってしまうという点こそ、この本がもたらす最大の教訓かもしれない)。ともあれ、どちらに転ぶにせよ、この「時代の鏡」たる本書、一読の価値ありである。
(二葉亭クレヨン)
最終更新:2018.10.18 04:52