■レイシストをしばき隊、結成までの葛藤
11年の3.11以降、野間は反原発運動に身を投じていた。12年6月29日には、首相官邸の前に夥しい数の人々が集まり、原発反対の声をあげる瞬間を目の当たりにした。その数は10万人とも20万人とも言われている。この“金曜官邸前抗議”と呼ばれる反原発運動が始まったのは12年3月末。当初は300人くらいの集まりだったという。その後、夏へ向かって動員数はどんどん増えていくのだが、野間は著書『金曜官邸前抗議 デモの声が政治を変える』(河出書房新社)に、こう書いている。
《私自身も、原発に対して怒っている人がこんなに多かったのかと驚いた。そして、ときに楽しげにも見える街頭デモではなく、官邸前のような殺風景なところでじっと立ちつくしながらひたすら怒りの声を上げるほうが、多くの人にとって参加のハードルが低かったというのも意外だった。いや、盲点だったと言ってもいいのかもしれない》
このとき発見した“怒り”というキーワードが、後の本格的な反ヘイト活動に活かされることとなる。
2013年1月、野間は「レイシストをしばき隊」を結成した。だが、これは現在のように沿道から抗議の声を浴びせるというスタイルではなかった。在特会らはデモ終了後、“お散歩”と称して、新大久保の韓流ショップなどの店員や客に嫌がらせを繰り返していた。野間はそれをくい止めるため、仲間を商店街に配置した。いわく「暗がりに潜」んで行う「ステルス的」な活動。結果は大成功だった。在特会を一歩も商店街のなかに入れなかったのだと、野間は言う。
「しばき隊をやりますと宣言して、そこで何かがかわりましたね、やっぱり。僕自身もね、ずっと逡巡していた。火に油をそそぐんじゃないか、しばき隊のようなミリタントな活動によって、在日の人たちにとばっちりがいくかもしれない。いろんな迷いがあった。しばき隊を募集したとき、『迷惑だからやめてくれ』って言った在日の人も当然いたし。いつものように排外デモ側に『反日極左と戦う』みたいな動画を撮る材料を与えるのも嫌だった。しばき隊が最初ステルスだったのは、デモを刺激すると余計に混乱が起きると恐れていたからなんです。それらをふりきってカウンターをやる根性というか勇気というのは、当初はなかなか持てなかったんですよね」
カウンターの規模が大きくなり、排外デモ側の人数を上回ったのは13年3月のことだ。沿道でプラカードを掲げる“プラカ隊”など、しばき隊に呼応した活動に人数が集まってきた。50、100、200と増えていく反レイシズムのプラカードを見て、野間は大いに感動したという。そして、カウンター活動はさらなる隆盛を見せていく。
「3月31日かな、人数が爆発的に増えた。そのとき初めて、カウンターが柏木公園の周りでレイシストたちを取り囲み、『帰れ!』ってシュプレヒコールを浴びせる展開になり、僕もびっくりしました。しばき隊、プラカ隊他、全部あわせて600人ぐらいいたと思う。4年前には、そんなこと絶対無理だと思っていたのに、実現したわけです」
しばしば誤解されがちだが、新大久保でカウンター活動を行う人々のすべてが、しばき隊というわけではない。現場にいるしばき隊のメンバーはせいぜい数十人くらいで、あとはネット上の告知を見るなどして自然に集結した人々である。筆者が現場を取材しているときに出会った高校生らは、野間の名前もしばき隊の名前も知らなかった。ただ、韓流アイドルが好きで、差別的なデモは「許せない」と思い新大久保に駆けつけたのだという。まだ、あどけなさの残る少年たちであった。
「これだけの人が来たのは、ひとつは怒っている人が多かったということ。そして、その怒りの感情をストレートに表現するのが“アリ”なんだ、というスタイルになっていたのが大きい。もうその時点でしばき隊もプラカ隊も関係ない。モヒカンのパンクスとか見たことあるでしょ? ネットでしばき隊とか言われてるけど、違うから。でもやってることは同じなので、外部から区別つかないのはしょうがないけどね(笑)」
カウンター活動は効果を発揮し、排外デモは中止になったりコースの変更を余儀なくされたりした。だが、一旦燃え広がった“怒り”の勢いは、しばしば排外デモ隊との物理的な衝突をも招くようになった。13年6月16日には、排外デモ側から4名、しばき隊から3名の逮捕者を出した。今や、その活動方針に疑念を抱く声は少なくない。実際に、彼らの活動に対して否定的な報道もなされている。