2回目の候補となった第131回(04年上期)の『チルドレン』(講談社)では、ナベジュンも「構想や比喩もそれなりに鋭く、才気という点では一番だろう」と一定の評価を与えているが、次に噛みついたのは林真理子。伊坂の持ち味のひとつである「時空の自由な飛び方」に対し、「読者を混乱させてしまうばかりで、何の効果も生じないのだ」と酷評しているのだ。
だが林も、続く第132回(04年下期)では受賞した角田光代の作品と同じように「推した」と述べ、「本当にセンスのいい作家だと思う」とベタ褒め。今度は津本陽や阿刀田高から「いまの境地を一段とつき抜ける熱情がほしい」「主人公の心情に同化できなかった」といわれ、五木寛之には「この程度の作家ではあるまい、というのが多くの選者の意見だった」とまとめられている。
選評でダメ出しされて次の作品で納得させても、今度は別の選者からダメ出しをくらう──いくら文芸は客観的評価が難しいものだとはいえ、これだけ意見がバラバラだと「じゃあ、どうすりゃいいのさ!」と怒りをぶつけたくもなるだろう。
しかし、まだここまでは我慢もできよう。問題は第134回(05年下期)の選評だ。4度目のノミネートとなったのは『死神の精度』(文藝春秋)だが、ナベジュンには「生や死や人生を、安易に割り切るところが作品の軽みであるとともに、底の浅いものにしている」と再び咎められ、ついには林にも「伊坂さんは、今とてもむずかしい時期に来ていると感じた」と見放されてしまう。さらに津本には「ながいあいだ書きながら、しだいに間口をひろげてゆけるようになることを期待する」と、“まだまだ青二才”認定を受けてしまうのだ。当時77歳の長老にこう言われてしまっては、直木賞受賞までこの先何十年かかるのか……と気が重くなったに違いない。
そして、最後のノミネートとなった第135回(06年上期)。候補となったのは『砂漠』(実業之日本社)だったが、「応援してきた私としては少々、あてがはずれた感じ」(平岩)、「失敗作」(宮城谷昌光)、「作者の意図が私には計りきれなかった」(阿刀田)、「今回少々がっかりした」「中途半端な結果に終っている」(林)と散々な言われ様。五木は「これで受賞したら伊坂幸太郎のファンが泣くだろう」と書いているが、伊坂にしてみれば「自分で応募したわけじゃない!」「第一、お前一度も強く推したことないだろう!」と言い返したくもなるはず。しかも、ナベジュンにいたっては「深さとこくがない」と、これはコーヒーの選評か!?とツッコみたくなる言葉を投げつけられる始末。──まさに満身創痍、たとえ直木賞が最高の栄誉だったとしても、レースから降りたくなる心情もよく理解できるというものだ。