人間をひとつの人格として扱う思想をつくりあげたのは、ヨーロッパのキリスト教神学のもとで発展したスコラ哲学である(私たちの社会を支える人権概念もそこから生まれてきた)。なかでも最初に「ペルソナ」を私たちの知る「人格」の意味で定義したのは、『哲学の慰め』で名高い最初のスコラ哲学者ボエティウス(480〜524/525年)といわれている。彼はそれを「理性的本性をもつ個別的実体」と定義した。これは「ありのまま」の自存性(自分だけで存在できる性質)を強調した、私たちにも馴染み深い定義だ。でも、スコラ哲学にはもうひとつの極みがあり、それはペルソナを関係性(他との関係によってはじめて存在する性質)によって定義するものだ。スコラ哲学で想定されていたのはもちろん神との関係(父─子─聖霊の三位一体)であるが、現代的な文脈に移すとそれは社会的な関係、つまり「仮面」的な定義ということになる。これは、「ありのままの自分」という自存的に思える存在も、他人との関係のなかではじめて現れてくる(もし世界が自分ひとりのものなら「ありのまま」という概念自体が出てこないだろう)という発想だ。そしてスコラ哲学の完成者トマス・アクィナス(1225?〜1274年)は、自存性と関係性の共存する定義をつくりあげ、現代の心理学にも通じるパーソナリティ概念の基本的な枠組みをもたらしたのである。
このように、もともとパーソナリティとは自存性(「ありのまま」)と関係性(「仮面」)という相反する二つの意味を併せ持つ両義的な概念なのである。そうだとすれば、自分のパーソナリティが不安や葛藤の種になるのも不思議なことではない。仮面をつけていたつもりなのに、それがいつのまにか本来の自分と区別がつかなくなっていたり、本来の自分だと思っていたことが、じつは他人の模倣だったのかもしれないと気づいたりと、そうしたことは社会のなかで生きていかざるをえない私たちがよく経験するものだ。それになにより、自分の「ありのまま」であるはずのパーソナリティの自存性が、社会という他人との関係性によって脅かされ、それを抑圧したり否認したりしなければならなくなる場合もあるのである。
先に、「レリゴー」はパーソナリティをめぐって生まれる不安や葛藤を見事に表現していると述べた。だからこそ、この歌は、そうした不安や葛藤を克服する解放的なメッセージとして私たちの耳に届く。これが女性や性的マイノリティ、あるいはダークヒーロー(ヒロイン)の応援歌として解釈されるのも、それが自存性と関係性の間で不安を覚え葛藤するパーソナリティの解放を支援しているからなのである。
しかし、このように考えると、原曲の「レリゴー」と日本語版の「ありのままで」の間にある大きな隔たりにも思いを馳せずにはいられない。原曲の「レリゴー」は、これまで述べてきたような、自存性と関係性の狭間で揺れ動くパーソナリティが経験する不安や葛藤を乗り超えるための応援歌だ。でも、それが「ありのままで」という日本語にローカライズされたとたん、そのメッセージから関係性が抜け落ち、にわかに自存的な要素だけが前面に押し出されるように思えるのは気のせいだろうか。それは「ありのままで」という言葉が、現代日本では「そのままでいいんだよ」「なんにもしなくていいんだよ」という、徹底的に非社会的なゆるふわ愛され系メッセージとして消費されているからだろう。この曲を日本語で歌うときには、原曲に込められた自存性と関係性の緊張関係を忘れないようにしたいものだ。
(二葉亭クレヨン)
最終更新:2018.10.18 04:53