水木しげるが「戦争落語 天皇陛下バンザイ」で描いた、天皇と戦争、軍隊
太平洋戦争でラバウルに出征した漫画家の故・水木しげるも、「戦争落語 天皇陛下バンザイ」(1982年)という掌編を残している。挿絵を入れた4ページのエッセイ作品だ。小学校時代、天皇の「御真影」が納められている小屋の前を通るとき、頭を下げて一礼せねばならないという規則があった。遅刻しがちだった水木少年は、小屋の前を敬礼せずに走り過ぎたのだが、その場面を校長先生に見られてしまった。水木は「天皇陛下万歳」の時代を、このように振り返っている。
〈子どものときに校長先生に立たされたぐらいでは、べつに天皇陛下がおそろしいとは思わなかったが、おそろしかったのは軍隊だ。そのころは戦争だったから天皇はカミサマだった。〉
上官から「天皇陛下」の名前が出ると、“気をつけ”をせねば半殺しの目にあう時代だった。天皇の写真が載っている新聞を「ただの新聞紙だと思って」踏みつけてしまったがために殴られたこともあった。戦地でマラリヤや栄養失調にかかって、敵の飛行機が頭上にいてもなお、「おそれおおくも」と言われると“気をつけ”をして話を聞かなければならなかったという。水木は〈ぼくは個人的に天皇陛下に悪意をもっているわけではないが、ただその名の下にいろいろいじめられたから、動物がいちど鉄砲玉で撃たれると“鉄のニオイ”をこわがるように、昔の軍国主義にかえることはなんとなく生理的にいやなのだ〉と書いている。
〈最後に天皇陛下の名の下にいじめられたのは、敵に襲われて命からがら本隊に帰ったとき、大切な“陛下からいただいた銃”をもっていなかったために、ひどくいじめられたことがあった。「命が助かったんだから、小銃ぐらいなんですか」といった顔つきをしていたのがいけなかったのだ。“陛下からいただいた銃は命よりも重く、命は羽毛よりも軽い”というのが当時の考えだから(いや、当時としてもどうしても理解できないことではあったが)、「とにかくこの次は真っ先に死んでくれ」というのが中隊長の命令だった。〉
「天皇陛下万歳」の本質は、天皇=お国のために死を賭して人生を捧げるという宣誓に他ならない。そして、「天皇」の名は日本の軍国主義、皇国史観を凝縮した言葉として、人々に強制力をもって暴力と戦争を肯定したのである。
戦後はどうだったか。GHQによる統治と、天皇を「象徴」とする日本国憲法の制定を経て、「天皇陛下万歳」は徐々に天皇絶対主義者の専売特許的な文句となっていった。1960年の浅沼稲次郎刺殺事件で、テロに及んだ17歳の山口二矢が「天皇陛下万才」と書き残して自殺したことはよく知られている。昭和から平成への代替わりの際には、「即位礼正殿の儀」などの儀式における首相の「天皇陛下万歳」について、国民主権や政教分離の観点から議論が起きた。当時の海部俊樹首相は、先例にならって庭に降りるよう求める宮内庁に対し、新天皇と同じ松の間の上から「ご即位を祝して」とつけて「万歳」をする形式に変えた。