落合、古市両氏の対談が掲載された『文學界』2019年1月号(文藝春秋)
古市憲寿との対談の内容に批判が集中した落合陽一が、5日朝、「落合陽一が文學界の『落合古市対談』で伝えたかったこと」と題した文章を、テキスト投稿サイト「note」にアップ。問題となった終末期医療に関する発言について「反省」を表明した。
念のため振り返っておくと、この問題は、人気若手論客の落合と古市が「文學界」(文藝春秋)2019年1月号での対談「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」のなかで、“終末期医療、とりわけ最後の1カ月の医療は金の無駄だ、社会保障費削減のためにやめたほうがいい”という趣旨の発言をしたことに端を発するもの。
これを芥川賞作家の磯崎憲一郎が朝日新聞紙上で批判的に論評したのを皮切りに、本サイトも1日の記事(古市憲寿と落合陽一「高齢者の終末医療をうち切れ」論で曝け出した差別性と無知! 背後に財務省の入れ知恵が)で医療・社会保障の専門家による複数の論文を引用しながら、ふたりの若手論客は財務省の“社会保障費カット論”のペテンに丸乗りしていると批判。ネット上では、医療関係者や医療ジャーナリストからもその誤謬を指摘する声が続出した。
落合はこうした批判を受け、5日朝なってようやく「反省」をあらわした。noteに投稿した文章では、〈今回の文學界の対談で大きく反省している点が2点あります〉として、〈介護にまつわるコスト課題(職員のサポート)と,終末期医療にまつわるコスト課題を,対談形式なので同列に語ってしまったこと〉と〈終末期医療に関してコストや医療費負担の知識が不足していたため,校正でも気が付かなかったこと〉をあげている。また、〈僕は終末期のQOLを高くしたいし,その金額を積極的に削減したいと思っている訳ではありません〉〈コストの議論で生死の話をしてはいけないし,その倫理については十分議論する必要があると思います〉と述べている。
ようするに、問題視された“コストのかかる終末期治療を打ち切れ”という趣旨の対談について、落合は主要な部分で誤りを認めて撤回、“終末期医療を積極的に削減したいと思ってはいない”と訂正することで、事態の収拾を図ろうとしているというわけだ。
当然だろう。だが、この間、落合は各方面からの指摘を真摯に受け止めて、すぐに「反省」を表明したわけではない。むしろ逆だ。たとえば2日には、〈「リテラのようなヘイト記事の見出しとかスクショだけを読んで原文読まずに雰囲気に流されるやつの方」が「はるかに胡散臭い」っていう自覚が早くこの世界の全ての人に生まれるといいと思う〉と、本サイトの記事を「ヘイト」呼ばわりしている。
ヘイトというのはいうまでもなく、人種や国籍、性別など変更不可能な事柄を理由に暴力や差別的行為を煽動したりする発言、差別表現のことだ。
本サイトの記事は、今回、落合が認めた〈終末期医療に関してコストや医療費負担の知識が不足〉を具体的に批判し、命の選別を平気で肯定するその差別性を追及し、こうした議論の裏に財務省のキャンペーンがあることを指摘したものだ。それのどこが「差別表現」に当たるというのか。まさか国立大学の学長補佐も務める学者が、「差別」と「批判」の違いもわかっていないとは。「差別」と「批判」「罵倒」を混同して政権批判を「ヘイトだ」とがなりたてるネトウヨをよく見かけるが、これではそのレベルと変わりがないではないか。