司法修習生の学ぶ教科書に“暴行に屈する貞操の如きは保護に値しない”
なぜ、旧態依然とした“男性にとって都合のいい”見方が司法の世界ではまかり通っているのか。その理由のひとつを、同書はこのように述べている。
〈警察官の九〇%以上、検察官、裁判官の八〇%以上が男性であり、警察も検察も裁判所も圧倒的な男社会です。わずかに存在する女性も、圧倒的な男社会のなかで男性の感覚に染まってしまっていたり、違和感を感じながらも大勢に逆らえなかったりします。その結果、加害者と同じ男性の感覚で被害者の落ち度を責め、プライバシーを暴きたて、被害者を傷つけます(二次被害)。強かん裁判が、被告人ではなく、被害者を裁く裁判と言われるゆえんです〉
しかも、いまも法科大学院でも使用され、司法修習生に学ばれている『注釈刑法』(初版は1960年代)などでも男性視点が見られると同書は指摘。現に、この注釈書では“被害女性の意に反するか否かが唯一の標準になれば法的安定を損なう”“女心の微妙さを考慮に入れよ”“些細な暴行・脅迫にたやすく屈する貞操の如きは刑法の強かん規定の条文で保護されるに値しない”などという趣旨の信じがたい記述がなされているという。
性犯罪への理解がまったくないばかりか、「貞操」という言葉が堂々と使われる男性中心的な司法界。だが、繰り返すが、司法の場だけでなく一般社会でも、性犯罪に対して被害者女性を非難する意見が支配していることを忘れてはいけない。それは、たとえば一般市民が審査する検察審査会においても、そうした不当な判断がなされている可能性が高いということだ。そしてそこに女性が参加していたとしても、女性もまた男性社会の規範を内面化し、逆に同性であることから道徳的に厳しく判断することもある。しかも、今回の山口氏の問題では、前述したように補助弁護人も選任されていないのだ。
山口氏の事件は安倍政権の介入が疑われるという非常に特異かつ看過できない問題を孕んでいるが、そのことを差し引いても、ネット上に溢れる「レイプ神話」に基づいた詩織さんへの非難の数々を見れば、いかに女性に対する差別がまかり通っているかがわかる。そうした社会の考え方・見方が、司法の場における不当な判決を支えているのである。
詩織さんは〈性暴力に関する社会的、法的システムを、同時に変えなければいけない〉と述べている。そのために、彼女は攻撃に晒されることを覚悟した上で名前と顔を出し、被害を語った。その一方で、メディアで個人攻撃さえもおこない自己正当化を図る山口氏。その姿を見て、あなたはどう思うだろうか。
(編集部)
最終更新:2017.11.01 12:24