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尾崎豊の息子・尾崎裕哉が語る二世タレントの苦悩、そして人前で父親の歌を歌えるようになった理由

 彼は5歳のときに母とともに日本を離れ、アメリカのボストンで育っている。そこでの生活は自分が早世した伝説的ミュージシャンの息子であるということを殊更に意識しなくても済むものであったという。しかし、高校入学を機に日本に帰国することになり、彼は自らのルーツと真っ正面から向き合わざるを得なくなってしまう。その当時の葛藤を彼はこう綴っている。

〈アメリカに住み、日本からの物理的な距離を保つことが、僕を尾崎裕哉でいさせてくれていた。日本に帰れば、いやがおうでも「尾崎豊の息子」になる。父親は誰もが知っている存在であり、母親が言うように「あなたのやること全てが尾崎豊の印象につながってしまう」のかもしれない。そんな環境で、僕は僕のままでいられるのだろうか〉

 父と一緒に過ごすことのできた時間は少なかったが、父が残したレコードを聴いて育ったことも影響し、5歳のころから〈自分は父親の後を継いで、ミュージシャンになる〉と決めていた彼にとって、父と比べられることから逃げられない環境に身を置くことは、より切実な問題として彼の前に立ちふさがることになる。偉大な父の影を意識せざるを得ないような状況は、初めて人前で歌ったときから彼を苦しませ続けていた。

〈人前で父親の歌を初めて歌ったのは中学生のとき。一時帰国の折、親族とカラオケに行った。歌い終えると、みんなは驚いていた。「声がパパとそっくり!!」あまりにも似ていたらしく、母も動揺しているようだった。それから、カラオケに行くたびに母親から「パパの曲歌えないの?」と訊かれることが多くなった。やりすごしても繰り返しリクエストされるので、仕方なく父親の曲を入れた。「これからこういう機会も増えるだろうし……良い練習だと思おう」と自分に言い聞かせた。「尾崎豊の息子」として扱われ、そうふるまうことを求められるのは、日本に帰ってくると決めた時からわかっていたつもりだった〉

 この頃に前述した『“BLUE” A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』へ参加したり、その後の大学時代にはInterFMでラジオ番組『Between The Lines』を受けもったりと徐々に人前に出る機会が増えていくのだが、そこでぶつかった壁は想像以上に大きいものであった。

〈恐る恐るネット掲示板での書き込みをチェックした。予想通りだ。「七光り」「理想論」「バカ」という言葉が目立った。
 永遠に続くかのような書き込みを読んでいると、身体中から血が抜かれていくような気分になった。手は冷たくなり、額や背中から冷や汗が吹き出ていた。自分のことをよく思っていない人たちがこんなにいるんだ……そのことがとても恐ろしかった。あらゆる誹謗中傷をまともに浴び、恥ずかしさに似た気持ちで頭がいっぱいだった。でも、「今の段階でそう言われてもしょうがない」と納得さえしていた。そういう意見が出てくることのほうが、むしろまともなのではないかとすら思えた。
(中略)
 そう思ってはみても、僕はそれほど強くなかった〉

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