〈ジェンダーとは「社会的・文化的に形成された性別」である。国の第二次基本計画では「文化的」という言葉が削除された。自民党の議論の中で「男らしさ」「女らしさ」の区別にもとづく鯉のぼり、ひな祭りなどの日本の伝統文化を否定するのかという批判が相次いだからである。
しかし「文化的」という言葉を削除したことで問題は解決したのだろうか。「社会的性差」を否定することは、すなわち「男らしさ」「女らしさ」を否定することに他ならない〉
稲田氏は「男は男らしく女は女らしくすべきだというふうには思っていない」と言うが、こうしてきっちり「男らしさ」「女らしさ」を否定するな、と書いているではないか。否定するなと批判するということは、すなわち「男は男らしく、女は女らしく」と考えていることに等しい。
しかも稲田氏は、この「男らしさ」「女らしさ」という固定的な押し付けが、さまざまな性的マイノリティを苦しめてきたものだという自覚さえもっていなかった。というのも、稲田氏はつづけて、
〈何よりも「ジェンダー」という概念を認めることが、すなわち社会的に男女が平等に扱われていない、支配者たる男と被支配者たる女の階級闘争というイデオロギー運動なのである〉
と書いているからだ。これは稲田氏がジェンダーの問題を“男女の階級闘争”としか捉えず、さらには恐るべきことに“男女は支配者/被支配者の関係であるべき”と考えている証しではないか。
稲田氏の問題発言はこれだけではない。たとえば、稲田氏は男女共同参画社会基本法や選択的夫婦別氏制度の法制化、婚外子の相続格差撤廃などに猛反対してきたが、そのなかで、こんな主張を繰り広げてきた。
〈私が夫婦別姓に反対する理由は、夫婦別姓は家族としてのきずなや一体感を弱め、法律婚と事実婚の違いを表面的になくし、ひいては一夫一婦制の婚姻制度を破壊することにつながるからだ〉
〈「多様な価値観」を突き詰めて、同性婚、一夫多妻、何でもありの婚姻制度を是としてよいのか。例外を法的に保護すれば、法の理想を犠牲にすることになってしまう〉(毎日新聞2007年1月8日付)