それにしても、これほど脅しのような事前チェックを迫られても屈することなく、ジャーナリズムの原理原則を死守し、しかも記事にして世に問うた林記者の姿勢は、じつに真っ当なものだ。ぜひ本記事を読んでいただきたいと思うが、今回の記事があきらかにしたのは紛れもない〈国家権力の横暴〉である。そしてそれは林記者も指摘するように〈電波停止を示唆することで、放送局の報道をすべてコントロール下に置こうとする高市発言と同じ傲慢さ〉だ。
もちろん、こうした国家権力による圧力の存在自体、許されるものではないが、この問題が根深いのは、圧力に簡単に屈してしまうメディア側の体質が背景にあることだ。
たとえば、雑誌の芸能人などへのインタビューでは、当たり前のように事前の原稿チェックが行われている。今回の鈴木大地・スポーツ庁長官も、選手時代ならばインタビュー記事が掲載される前にその内容を確かめることは“普通に”あっただろう。これを「当然のこと」と考えている編集者は多いかもしれないが、たんに利害の衝突を避けているだけで原理原則からは外れた行為。逆にいえば、こうした「馴れ合い」を繰り返しているため、強い力をもった芸能プロダクション所属のタレントのスキャンダルは報じないという歪な報道姿勢になってしまうのだ。
しかも、芸能人と政治家では根本的に社会的立場がまったく違う。為政者に対して「馴れ合い」を許せば、批判や告発といった“都合の悪い”記事は世に出せなくなってしまうからだ。とくに、為政者は発した言葉に責任を負う必要があり、訂正は効かない。事前チェックなど言語道断の行為だ。
しかし、「発言者には口を挟む権利がある」という権利意識の高まりに伴って、為政者に対しても同じ意識でいる記者は数多くなった。いや、由々しきことに、自ら事前チェックを申し出る記者もいるという話さえある。記者たちの「話を聞かせていただいている」という意識が、権力者を増長させ、検閲を許すという構造をつくり出しているのではないか。
林記者のように権力の介入に断固として応じない記者がいることには安心感を覚えるが、これは気骨があるとか、そういう話ではない。自分が権力の手足となっているということに気づかない記者が存在する、それがマスコミ報道の危ない現状なのだろう。
(水井多賀子)
最終更新:2016.04.30 11:04