「殴られたけれどいい先生だった」という“体験談”は、すべての人に当てはまらないし、それを子どもに押し付けるのは、第二の暴力と言ってもいい。しかし、なぜ暴力の記憶が「美化」されてしまうのか。この点も藤井氏は言及している。
〈体罰を受けた子どもたちが、それでも体罰をふるう教師を「いい先生」だと言う。それは、殴られるときは辛く、嫌だったし、また殴られることに恐怖を感じているのだが、それをクリアした、耐え抜いたという経験を経ることでとらえ方が逆転するからだ。理不尽な体罰や暴言に耐え抜いてきた自分をほめ、耐えたことは間違いではなかったと考える。と同時に、自分のためを思ってやってくれる「愛の鞭」だったんだと、心身が拒否していた「体罰」がとたんに美化される〉
ここに、成績が伸びたりスポーツ競技で勝利するなどの“成功体験”が加わると、さらに「美化」は進む。だが、その“成功”とは、暴力や恫喝という恐怖によって支配した結果、必ず生まれるものではない。そればかりか、その暴力は再生産されつづけていく。現に、女子柔道や相撲部屋で横行してきた暴力事件などにも顕著なように、指導という名の暴力を受けてきた者はさらに下の人間にそれを繰り返し、隠蔽され、相撲部屋では暴行死という最悪のケースにいたっている。
自分は乗り越えたから、あるいは自分の青春の思い出を否定されたくないから。そんな理由で体罰を認めることは、藤井氏の指摘にもあるように、“いま、体罰を受けている子どもたちの苦しみを置き去りにしている”ということだ。そのことの意味を、土田や坂上、東国原、宮迫らには考えてもらいたいが、もうひとつ、同書から指摘しておきたいのは、〈そもそも、学校における体罰が是か非かなどと議論をしているのは日本ぐらいである〉という点だ。
〈海外では、学校内における体罰は子どもへの虐待と見なされる。そして世界では、今や体罰禁止の焦点は「家庭」に当てられている。保護者でさえ子どもに対する体罰が禁止される方向にあるのだ〉
学校内の体罰は虐待。この認識は、一体いつになったらこの国に根付くのだろうか。
(田岡 尼)
最終更新:2017.11.24 09:50