そもそも14年8月中旬に拘束された湯川さんは解放される可能性が極めて高かった。湯川さんが拘束された際、イスラム国のオマル・グラバ司令官は政府ではなくジャーナリストの常岡浩介氏と元同志社大学教授の中田考氏に連絡を取っている。
「オマル氏が常岡氏に伝えたのは、湯川さんにはスパイ容疑がかかっており、裁判をしようと思っているが、湯川さんは英語もアラビア語もできないため意思疎通がとれない。そこで、通訳と立会人が必要だ」
2人は要請を受け、同年9月3日にラッカに向け日本を出発した。経由地のイスタンブールでは外務省職員4、5人に「行かないでください」と諭されたが、しかし2人はシリア入りした。当初から既に政府、外務省は2人のイスラム国接触を妨害したのだ。相手の手の内には湯川さんと言う日本人人質がおり、その救出可能性があるにもかかわらずだ。
さらに重要なのは、この時点でオマル司令官は湯川さんについて「身代金は取らない。処刑はしない」と常岡氏に明言していることだ。
「イスラム法にのっとって裁かれ、無罪にならなくても殺されるよりはましだし、交渉すれば解放の可能性はある」
常岡氏の当時の判断は人命を優先するためにも、的確だったはずだ。そのためにも2人はシリアに渡ったのだから。しかしアサド政権によるラッカが空爆されたことで、2人は一時帰国を余儀なくされ、1カ月後の再渡航の準備の途中、事件が起こる。
10月10日、北海道大学学生がイスラム国で戦闘に加わろうとしたという容疑が浮上、関連先として常岡氏、中田氏の名があり2人の出国は不可能となったのだ。これは明らかな捜査当局による妨害行為だった。
この時点で警視庁では連絡室を立ち上げ、湯川さんの父親と接触するなど情報収集しているが、しかし「官邸の情報連絡室など、ほとんど動いていない状態だった」という。その約2週間後、今度は後藤健二さんがシリア入りし消息を絶った。