また、正治が山下を推した裏には、自分の権力保持に向けた謀略的側面も大きかったという。正治の元部下の証言だ。
「当初、幸之助さんの頭の中には、電池の責任者だった副社長の東國徳さんを社長に昇格させるという案があった。だから本社の役員、幹部連中は、すべて“東シフト”で、みんな次の社長は東さんだと思ってたんですね。ところが、正治さんと東さんは、性格的に合わんかったうえ、年齢も正治さんが64歳で、東さんが63歳と1歳しか違わない。かりに、東さんが社長になれば、自分の出る幕は無くなるというんで、正治さんは、山下さんを幸之助さんに熱心に売り込んだんですね。そして幸之助さんの人事案をひっくり返してしまった」(同書より)
そして山下は大胆に組織の若返りを図り、幸之助の番頭役とも言えるベテラン役員をバッサリ切っていく。この改革に喜んだのが正治だ。幸之助の側近たちがいなくなったことで、自由に動けるようになったというわけだ。
急進的な組織改革を行った山下だったが、幸之助から託された正治への引退勧告のミッションは実行できず、結局、後継社長の谷井昭雄に引き継がれることになる。
そして幸之助が逝去してから約2年後の91年、谷井は正治に直接引退勧告をする。しかし、正治はまったく受け入れなかった。それどころか、その後も経営における大きな影響力を発揮し、谷井を追いやっていく。
「正治さんは谷井さんをいびり倒していた。毎日のように、会長からいびられるわけですから、ほとほと嫌になりますよ。だから最後は、谷井さん、一種のノイローゼみたいになって、何言うてるかわからんかった」(谷井の元側近・同書より)
そんななか、なんとも不可解な事件が発生する。俗に「欠陥冷蔵庫事件」と呼ばれる事件──92年5月、松下電器の子会社で冷蔵庫を専門に製造していた松下冷機の決算発表会で、冷蔵機能が低下する故障が多発していると発表されたのだ。
この発表を行ったのは、当日に松下冷機の次期社長への内定が決まった高木博男だった。高木は、松下電子応用機器の社長を就任からわずか9カ月で退任したのち、3カ月の本社顧問を経て、松下冷機にやってくるのだが、なんとも急な人事であることは否めない。また、正式には6月の株主総会で松下冷機の社長に就任する予定だったが、内定後の初仕事として、この決算発表を任されていたのだ。