1943年に東京神田で生まれた加賀は、かつては色街だった神楽坂育ち。「日本に初めて入ってきたバーバリーのトレンチコートを買うために1カ月分の給料をはたいてしまうような」ダンディな洒落者で大映プロデューサーの父と、専業主婦の母との間の3兄姉の末っ子として生まれた。家には映画関係者が頻繁に出入りする環境で、また10代の加賀はダンディな父に、レディとしてエスコートされホテルに出入るような生活を送っていた。
父親からは「一人前の人間として見ているから、自分で考え、何でもやりなさい。但し、家族に迷惑をかけるようなことはしなさんな」という自由な教育を受け、母親からからはその生き様を教わったという。
「(母は)派手なことは好まず、世間体や体裁をかまうことも一切なかった。〈世間体〉なんてものを生きる物差しにしてどーする!? という、私の価値観の一端はこの母から継いだと思う」
さらに彼女の気質についてはもうひとつ興味深いルーツがあった。
「神田錦町で〈松本亭〉という料亭を営んでいた祖母(母方)は、自由民権運動と社会正義のために一肌脱いだ女大夫だった。(略)家には、足尾銅山鉱毒事件の田中正造、幸徳秋水、犬養毅父子など、時の政局を動かす政治家や多くの志士たちが出入りし、彼らのパトロンでもあった」
加賀自身、自分の気質をこの祖母からの隔世遺伝だと分析するが、まさに反骨の血が流れていたことになる。
だが、最近の加賀の発言を見ていると、毒舌、過激さだけでなく、冒頭のNHK発言のように「シンプルさ」「まっとうさ」なども加わった気がする。その部分で大きな影響があったと思われるのが、私生活でのパートナーである“ダーリン”との出会いだ。
今年で付き合い始めて10年という“ダーリン”は、そもそもは30年以上前に仕事で知り合ったテレビマンだった。その間、友だちとしての付き合いが続いていたが、加賀が60歳を目前にした頃、加賀自身が「恋人として付き合って欲しい」と告白して始まった関係だという。加賀によると“ダーリン”はこんな男性らしい。
「自分の損得では絶対に動かない人。通りすがりの人が駅で倒れたら、自分が急いでいても助けることがすんなりできる人。誠実が服を着て歩いているような人で、どんなときでもすくっと立っていられる人」(日経BP社「日経ヘルス プルミエ」08年6月号)
「“魂の清潔さ”みたいな部分は全然変わらない。地位や立場で人を差別しないし、嫌なオヤジの部分もでてこない。いるでしょ、出しゃばりで『俺が、俺が』ってタイプ。その真逆」(主婦の友社「ゆうゆう」13年2月号)
仕事がオフの時は必ず一緒に過ごすというダーリン。彼の存在は、これまで以上に加賀をシンプルに、そして素直にさせたようだ。60歳を迎えたとき、加賀は、それまで所有していた専用車を手放した。
「いるものと、いらないものが見えてきたのね。きっと。私には丈夫な足があるんだから歩こう!って」」(同上「ゆうゆう」より)
そして加賀は「正義が好き」と言い切り、それを貫こうとする。
「人がどう思うかは私には重要じゃないの。大事なのは自分が信じた通りに行動すること」(同上「日経ヘルス プルミエ」より)
正義のため、自分信じたことだからこそ、加賀は「戦争もいらないし、原発もいらない」と臆することなく自然と口に出すことができるのだろう。こんな60代の女性が沢山出現してくれれば、日本はもっといい国になるはずだ。
(林グンマ)
最終更新:2015.01.19 05:11