それだけではない。読売や産経はあえて書いていないが、クマラスワミ報告には「吉田証言」に対する異論もきちんと示されている(11ページ)。
《慰安所が設置された状況や軍の性奴隷とするために女性をどのように集めたかについて、歴史学者から情報を得た》として、《千葉大学の歴史学者秦郁彦博士》の説を紹介している。秦氏が、“慰安婦狩り”が行われたとする済州島で調査したが証拠はなかったということや、「慰安婦犯罪の加害者は、朝鮮人の首長、売春宿の所有者、少女たちの両親であった」「慰安婦は平均的な兵隊の給料の110倍受け取っていた」という秦氏の見解も紹介され、いわゆる「強制連行」の有無については両論併記の形をとっているのだ。
そして、《第二次大戦までの期間と大戦中に行われた軍性奴隷のリクルートについて書こうとすると、実際にどのような女性を徴用したかについての資料が残されていなかったり、公の文書が公開されていないという最大の問題にぶつかる。「慰安婦」のリクルートに関する証拠はほとんどすべて、被害者自身の証言に基づく》とも明記されている。
つまり、この報告書はもともと狭義の強制連行の有無を特定できていないことを認めていたのである。
クマラスワミ氏が日本の慰安婦制度を「性奴隷」と認定したのは、主に慰安所への軍の関与と慰安婦たちの被害実態によるものだった。報告書は元慰安婦への聞き取りによって明らかになった慰安所の実態を詳述している。
《(工場での仕事だと言われたが)工場はどこにもないことがわかりました。女の子たちはそれぞれ小さな部屋をあてがわれました。中には藁布団が敷いてあって、ドアには番号がついていました。(中略)二日待たされた後、軍服を着て帯剣した兵隊が部屋に入ってきました。『言うとおりにするか、どうだ』と言うや私の髪を引っ張り、床に押し倒して脚を広げろと命じました。私をレイプしたのです。その兵隊が行ってしまうと、外に20人か30人の男たちが待っているのが見えました。その日全員にレイプされました。それ以来、私は毎夜、15から20人に暴行されたのです》
《最初の一年間は、他の朝鮮人の少女たちと同様に、高級将校の相手をさせられましたが、時が経つにつれ、私たちが次第に『中古品』になってくると、相手は下級将校になりました。病気に罹った女性はたいてい消されました。妊娠を避けるため、あるいは妊娠しても必ず流産するよう、『606号注射』もうたれました》
《中国の吉林省に着いた最初の日に、日本兵から五つの命令に従わなければ死ぬぞと言われた。天皇の命令、日本政府の命令、彼女が属している陸軍中隊の命令、中隊の中の分隊の命令、そして彼女が働くテントの保有者であるその兵隊の命令である》
繰り返すが、報告書は吉田証言を根拠にして、従軍慰安婦を「性奴隷」としたわけではなく、こうした聞き取りに立脚しているのだ。