前述の毛利嘉孝・東京藝大大学院教授は「週刊金曜日」2014年4月18日号に掲載されたいとうせいこう氏との対談で「日本でバンクシーのようなことをする人が出てきたら、告発する人も出ると思うんです。何か、そういう風に躾けられているというか。ネットで名前をさらしたり、ネガティブキャンペーンを張ったり」と語っているが、安倍首相の顔写真にヒゲの落書きや「FREE REFUGEES」「REFUGEES WELCOME」とバンクシー(のものと東京都は思っている)の落書きとの対応の差は、毛利氏の指摘を証明したものであるといえるし、今後もしネズミの落書きがバンクシーのものではないとわかったら、今度はインターネットを中心に犯人探しが行われ「逮捕しろ!」との大合唱が起きるのは目に見えている。
そうした日本社会でバンクシーのアートへの理解が進まないのは、ある意味で必然と言えるのかもしれない。バンクシーの作品は、単なる芸術以上に「権力に対する人々の抵抗」という意味をもつものだからだ。
「AERA」(朝日新聞出版)2018年11月12日号のなかで、現代美術家の小田マサノリ(イルコモンズ)氏は、バンクシーというアーティストの特異性をこのように説明している。
〈飢餓などの慈善事業に協力する作家たちはいますが、正義を貫くための市民の『暴動』を堂々と支援する作家はバンクシーだけでしょう〉
今回の落書きがバンクシーの作品であろうとなかろうと、バンクシーの匿名性により、ネズミの落書きと小池都知事のツーショット自体が、権力者の愚かさを表すアートになってしまっているということも含め、バンクシーというプロジェクトの批評性の高さがあらためて浮き彫りになったが、その批評に晒されているのは、小池都知事だけではない。日本社会の道徳ファシズムと権力に対する危機意識の薄さもまた照射されていることを忘れてはいけないだろう。
小池都知事に、是非ともこの機会にバンクシーのアートについて学んでいただくとともに、バンクシーならずともグラフィティアートには単なる「落書き」ではなく、政治や社会に対する人々からの異議申し立ての側面もあるのだという理解が日本社会でも深まってほしいものである。
(編集部)
最終更新:2019.01.18 11:52