昨年大晦日に放送された『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!大晦日年越しスペシャル!絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』(日本テレビ)にて、浜田雅功が『ビバリーヒルズ・コップ』のエディ・マーフィーのコスプレという設定で顔を黒塗りにし、そのことが日本のみならず、国際的な問題となったのは記憶に新しい。
2018年1月14日放送『ワイドナショー』(フジテレビ)で、このブラックフェイス問題について説明した松本人志はこのように語った。
「じゃあ、今後どうすんのかなって。僕らはモノマネタレントではないので、別にもういいんですけど、この後、モノマネとかいろいろバラエティ(番組)で、じゃあ、今後黒塗りはなしでいくんですね。はっきりルールブックを設けてほしい」
浜田のブラックフェイスが批判されたのは、「ただ黒塗りにしただけで“エディ・マーフィーのモノマネ”と称して笑いにしようとした」点にある。もし浜田が『ビバリーヒルズ・コップ』の名シーンを完璧に再現してみせたうえで笑いをとっていたのなら、ブラックフェイスは必要なかっただろう。あるいはそこまで黒塗りにこだわるというのであれば、「なぜ黒塗りがNGなのか」その差別の歴史も踏まえたうえで、それをも突破するような新しいお笑い表現をつくり出すこともできるかもしれない。
そこを単純に「はっきりルールブックを設けてほしい」などと言って考えることを放棄するから問題が繰り返されるのだ。このような短絡的な発想こそが、現在お笑いの表現し得る範囲を狭めている大きな要因のひとつである。
たとえば、放送禁止用語とされているものだって、文脈や使い方によっては差別的な笑いでなくむしろ差別を批判するような笑いにすることもできるかもしれないのに、そういった文脈を踏まえることを放棄して一律でNG項目のリストに加えてしまうから、自分で自分の首を締める事態につながっている。
そして何より、こうした思考停止が差別を温存させていることは言うまでもない。
今回の伊達も、差別を肯定するような意図はなかったかもしれない。しかし、「ブルジョア」という言葉や「障害者」という言葉が、それ単体でいわゆる差別用語や放送禁止用語ではないというだけで、それらの言葉の使われ方で問題が生じていることに思い至らなかったのだとするなら、差別問題に対して無神経すぎる反応だろう。
しかし、それは現在メディアが抱えている問題を象徴する出来事と言えるし、差別表現に関してはもはやそんな短絡的な考えでは通用しない時代になっているということを認識しなければならないのである。
(編集部)
最終更新:2018.11.04 02:25