「去年の憲法記念日に総理がビデオメッセージで(9条3項加憲案を)おっしゃった。『どういうことですか』と訊いた人に、総理は『それは新聞読んでください』とおっしゃった。みんながその新聞読んでるわけじゃないんです。ほかの新聞読んでる人もいっぱいいるんです。そんな言い方ってありますか! 何度も何度も『総理は自分の言葉で説明してください』『新聞読んでくれじゃなくて自民党の議員の前で説明してください』とお願いしました。1度もやってくれない」
「議論というのは、Aはこう言い、Bはこう言い、Cはこう言う、その意見をたたかわせるのが議論です。みんなが言いっ放しで『はい、みなさん意見言いましたね。終わりましたね』と、それを議論とは言わない」
「みんながいろんな意見を言いました。意見が異なっています。じゃあ、そこで公論をかわす。『あなたのそこはおかしいでしょ』『いえ、おかしくないです』と、それが議論です。みんなが意見を開陳しましたというのは意見表明であって、議論とは言わないです」
国民に改憲の内容や意味をしっかり説明する義務を果たし、それでも理解が得られないなら、議論を交わす。──石破氏が訴えていることは、やはり当たり前の話だ。だが、このごくごく当然の主張が「きちんと」しているように見えるのは、それだけ安倍政権による反知性、国民無視、強権的姿勢に慣らされてしまった結果だと言えるだろう。改憲の姿勢にしても、コメンテーターの玉川徹氏は「僕と考え方は違うのかもしれないけど、少なくとも石破さん、姑息じゃない」と言っていたが、まさにその通りで、安倍首相のように国民を騙そうとはしていない。
いや、それどころか、石破氏が質問を受けて意見を答える、ただそれだけのことが、「会話が成立している」としてネット上では評価に繋がっている。質問をはぐらかしたり、意味のわからないたとえ話をはじめたり、訊かれていないことを答えたり、「まさに」「ですから」「いわば」というフレーズを空疎に繰り返すなど、中身のない“安倍論法”を聴かされつづけてきた側としては、会話が成り立っているというだけで「ずっとマシ」だと思えてしまうのだ。