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『かぐや姫の物語』は#Me Too運動を先取りしていた? 小林麻耶と宇垣美里アナの心に刺さった高畑勲監督のフェミ的視点

 もうひとり、小林麻耶アナウンサーもこの『かぐや姫の物語』への深い思い入れを語っていた。

 本サイトで当時も報じたが、2016年1月に放送されたラジオ番組『春日太一のフカボリ映画談義』(JFN系)にて、映画史・時代劇研究家の春日太一氏とともに『かぐや姫の物語』について、涙を流しながら、こう共感を語っていた。

「つらかった。苦しくて、苦しくて。心臓が痛いし、感情を揺さぶられちゃったし、おとと様、お父様に対しても、もう怒りがすごかったし、そこに出てくる男たちに対してもそうだったし、商品として見たりとか、アクセサリーとして見たりとか、もう何なのよみたいな。もう本当に世の中に対しての鬱憤がもう本当にわき上がっちゃって」

 宇垣アナと小林アナ、二人の女性アナウンサーが、『かぐや姫の物語』に激しく心を揺さぶられたのは偶然ではないだろう。「女子アナ」というのは、かぐや姫と同じように、まさにこの社会の女性に対する固定観念の具現化が求められている存在だからだ。容姿端麗でありながら目立ちすぎない服装と外見、「女らしい」とされる立ち居振る舞い、一歩下がって、メインの出演者をたてる控えめな態度……。そこから少しでも外れた行動や言動を行えば、社内からはもちろん、メディアや視聴者からもリンチのように叩かれる。

 しかも、いくら真剣に仕事に向き合おうとしても、番組を担当しても社会は「女子アナ」というアクセサリー、お飾りとしての優劣しか評価しない。先日NHKを退職した有働由美子アナのような存在も出てきたが、いまだに30歳を過ぎるとテレビ画面から姿が消えていく女性アナウンサーは少なくない。

 宇垣アナは『かぐや姫の物語』を見ていて、「『あぁ、女って人ではないんだ』って思う瞬間がたくさんあった」と語っていたが、まさにそれは自分の体験でもあったのではないか。

 さらに、宇垣アナは、同作品のラストの描きかた、翁のすすめる高貴な男に嫁がず、月に帰ってしまうくだりについても、こんな問題を突きつけられたと語っている。

「最終的に月に帰ってしまうなかで、じゃあ彼女はなぜこんなにも我が儘と言われなきゃいけなかったんだろう? それはきっと彼女が、人から思われる幸せを幸せだと思えなかったせいなんだなって。それを我が儘と言われてしまうのが現代の女性であり、それを突き詰めて伝えてくるような。世間は、若い女性・美しい女性には、きっとつらいことなんてないと思っていて、『豊かで素敵な結婚相手がいたら、それで幸せじゃない?』って思ってる。でも、それが本当にその人にとっての幸せなかな?っていうのを、なんで監督は知ってるんだろうって」

 女性アナたちが悩みを吐露すると、必ず「男たちにちやほやされているくせに」「女子アナになったら、プロ野球選手や実業家と結婚できてしあわせになれるくせに」などという反応がかえってくるが、高畑監督はこうした考え方じたいが、女性への偏見、差別感情の裏返しだということをよくわかっていた。容姿でしか女性を見ようとしない男たち、「トロフィーワイフ」となることが幸せであるという偏見が、女性たちを苦しめている、と。

 そういう意味では、『かぐや姫の物語』は、まさにいまを生きている女性たちが受けている抑圧を描いていたのだ。だからこそ、宇垣アナも小林アナもここまで心を揺さぶられたのだろう。

 そう考えると、あらためて感心するのは、高畑監督の炯眼だ。宇垣アナは「なんでこのことを、オジさんの高畑監督が知ってるんだろう」とコメントしていたが、公開当時、78歳になっていた高畑監督が若い女性の置かれた状況や苦悩を理解していたということは驚きだ。

 自分のセクハラ行為や女性への偏見を世代のせいにする男性が多いが、問題は年齢ではなく、他者への想像力がどれだけあるか、弱者への視点があるかどうか、ということなのだろう。

最終更新:2018.10.18 01:49

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