『金子兜太 いとうせいこうが選んだ「平和の俳句」』(小学館)
今月20日、俳人の金子兜太氏が亡くなった。98歳だった。
金子氏といえば、近年では、安保法制に対する抗議デモなどで盛んに用いられた「アベ政治を許さない」の文字を揮毫した人物としてもよく知られており、一貫して平和を訴え続けてきた人物であった。
2015年からは東京新聞でいとうせいこう氏とともに、読者から募った平和に関する俳句を選評する「平和の俳句」欄を担当し、その仕事は『金子兜太 いとうせいこうが選んだ「平和の俳句」』(小学館)にまとまっている。
2018年2月22日付東京新聞ではこの訃報を受けて、いとうせいこう氏が〈現代俳句における偉大な業績はもちろんのこと、社会に関わる筋の通った活動にも目覚ましいものがあった。文学者として、また戦争体験者としての世界、そして人間への深い洞察はいつまでも私たちを導くだろう〉と追悼の言葉を寄せているが、金子氏は、俳句はもちろんのこと、メディアへの出演なども通じて盛んに平和の尊さを伝えようとしてきた。
その背景には自らの壮絶な戦争体験がある。1919年に埼玉県で生まれた金子氏は、東京帝国大学卒業後に日本銀行へ就職するものの、すぐに海軍経理学校に行き、1944年3月には海軍主計中尉としてトラック島(現在のチューク諸島)に送られている。
トラック島は連合艦隊の拠点基地でもある重要な場所だったが、金子氏が着任したときにはもうすでにアメリカの機動部隊による激しい空襲を受け、軍艦や貨物船や航空機は壊滅的被害を受けていた。補給用の零戦もほぼ全滅という状態のなか、サイパン島が陥落するとトラック島は完全に孤立。武器や弾薬はもちろん、食料の補給も絶たれた。こうしてトラック島では多くの兵士が餓死していくことになる。
「食料調達もうまくいきませんでした。
島でサツマイモの栽培を始めたのですが、害虫が出て、ほぼ全滅してしまったのです。虫でもコウモリでも、何でも食べました。空腹に耐えかねて、拾い食いをしたり、南洋ホウレンソウと呼んでいた草を海水で煮て食べたり。当然、腹を下します。弱っているところに下痢でさらに体力を消耗して、次々と仲間が死んでいった。屈強でごつかった荒くれ者たちが、最後はやせ細り、仏さんのようなきれいな顔で冷たくなっていく。たまらなかったですね」(「FRIDAY」15年8月28日号/講談社)
トラック島で金子氏が襲われた命の危機は食糧難だけではない。もっと直接的な九死に一生を得るような体験もしている。「本の窓」(小学館)2012年10月号に掲載された菅原文太氏との対談ではこのような恐ろしい記憶を語っている。