ちなみに、顔を黒塗りにして笑いをとることのなにがいけないのか。本サイトでもくり返し指摘してきたが、それは、黒人差別の歴史において、顔を黒く塗り、パフォーマンスすることで笑いものにしてきたという経緯があるからだ。
19世紀、アメリカで流行した「ミンストレル・ショー」と呼ばれる大衆演劇がある。黒人差別と表現の問題を論じた『『ちびくろサンボ』絶版を考える』(径書房)によると、このミンストレル・ショーは〈黒人の無知や無知から来ると思われていた明るさを笑いものにした〉芸風で、〈二十世紀の中頃のテレビ・映画のなかの黒人イメージにまで色濃く影響を及ぼしたと言われる〉ものである。
黒人は無知で、それゆえに明るく能天気である──そのような偏見に満ちた黒人像を反映したキャラクターを、白人が顔を黒塗りにしたうえで演じ観客たちを笑わせる。それがミンストレル・ショーであった。このような表現を成り立たせていた背景に、黒人を奴隷として強制労働させ人間として扱わなかった、アメリカの負の歴史があることは言うまでもない。
そもそも、松本はかつて、モノマネやパロディを一段下に見てバカにしていたはずだ。そうした笑いは安易でお手軽なもので、自分は0から笑いを作っているという自負があったのだろう。
番組内では、もふくちゃんによる「世界で見ても全員が笑えるものになんないといけないっていうふうになってきちゃったんだと思います。それが、良いか、悪いかは別にして」というコメントに「いま、『良いか、悪いかは別にして』って言いましたけど、『悪い』しかないよ」と松本は返していたが、自分の笑いが劣化して典型表現に堕した結果起きた問題をポリティカル・コレクトネスのせいにするのは、いささかお門違いである。
だいたい、松本はスタッフが出してきた台本を1から10まで聞き入れるような芸人ではなく、自分で納得しないものなら突っぱねる人間だろう。実際、気に入らないことがあれば「番組を降りる」「終わらせる」と恫喝することもあるではないか。松本は番組に対して、それだけの権力をもっている。
それなのにもかかわらず、今日の『ワイドナショー』では、一貫して“自分はいち出演者にすぎない”というスタンスをとり続けていた。そこになんらかの反省や、今回の騒動を受けて真摯にフィードバックしようという姿勢は見えない。
こんなことでは、そう遠くない未来、また同じような問題が引き起こされることは必至だろう。
(編集部)
最終更新:2018.01.14 04:22