ちなみに、この紳助引退騒動に関しては、数多くの芸人をバラエティー番組に送り込んでいる吉本興業に忖度した各テレビ局が報道を控えめにした。ワイドショーでは一応トピックとして扱うものの、詳細にいたるまで報道することはなかった。実際、「週刊現代」11年10月15日号では、フジテレビのスタッフが「情報番組に明確な圧力はありませんでしたが、やはり社内的に『どこまでやるんだ』という目で見られていたのは事実」とコメントしている。
とはいえ、吉本興行と暴力団の関係は紳助ひとりだけの問題ではない。巷間しばしば報じられるその代表が中田カウスだ。カウスは山口組5代目の渡辺芳則組長はじめ暴力団関係者と深くつき合うことでトラブルの解決役を引き受け、吉本興業内での影響力を高めていった。
暴力団との関係を報じられた吉本芸人は他にもいる。たとえば、間寛平は山口組系組長と親密な交際にあり、結婚資金を援助してもらったうえ組長を式に招待したり、また、逆に組長の結婚式に出席したといった過去があることを週刊誌に明かされている。そして極めつけは、横山やすしだ。彼は、中野会幹部と兄弟杯まで交わし、その盃を交わした際のツーショット写真も残されている。
芸人といえば、吉本所属ではないが、綾小路きみまろのことも忘れてはならない。彼は長かった下積み時代のことを漫談のなかで「潜伏期間30年」と自虐して笑いに変えているが、その潜伏期間を支えたのは暴力団であった。彼は稲川会や、山口組系後藤組など幅広く交際。パーティーでは司会を務めていた過去があると「FRIDAY」などで当時のビデオ画像とともに報道されている。
山口組が田岡一雄3代目組長時代に設立した「神戸芸能社」が美空ひばりの興行を手がけていたことはあまりにも有名だが、もともと芸能界と暴力団の関係は深い。コンサートなどの興行を取り仕切ってきた歴史から、歌手は特にその傾向が強い。
そのなかでもよく知られているのは、北島三郎だろう。彼と稲川会との関係は深く、1984年、稲川聖城総裁をモデルに製作された映画『修羅の群れ』の主題歌に「神奈川水滸伝」を提供、その曲は後に稲川会の会歌となった。さらに86年には稲川会の新年会に出席していたことが問題となり、弟子の山本譲二ともどもその年の紅白歌合戦出場を辞退するという騒動も引き起こしている。