「肛門記」ではこの後、手術を受けることになった朝井の不安がギャグたっぷりに綴られている。気になった方は『風と共にゆとりぬ』を読んでいただきたいが、実は朝井のように痔で苦しむ作家は多い。
痔瘻になる原因は、ストレスや軟便だと言われている。朝井はもともと非常にお通じの良いタイプらしく、痔を引き起こす要因がダブルで存在していたわけだ。
作家といえば、座りっぱなしで執筆作業に明け暮れざるを得ない商売。創作上のクリエイティブな「生みの苦しみ」に加え、作品の評価や売上の推移など、ストレス要因は数多い。だから、朝井と同じように痔を抱え、その苦しみを文章にしている作家は多いのだ。
まずは、『鉄道員』(集英社)などの著作をもつベテラン作家の浅田次郎。彼はエッセイ集『勇気凛凛ルリの色 福音について』(講談社)のなかで痔であることを告白。その原因を長時間のデスクワークとしている。
〈実は私、痔主である。売れぬ小説を文机で書き続けた結果、大痔主になった〉
このエッセイのなかで彼はウォシュレットの素晴らしさを称えているが、この便利な文明の利器が出てくるまでの苦しみをこのように綴っている。
〈痔は痛い。発作中、便法により一気呵成に脱糞するときなど、「エイヤッ!」ではなく、「キエェ~~イ!」というような悲鳴を上げるほどである。しかるのち、ペーパーで拭うときの痛さと言ったら、今このとき地球が破滅すれば良いと思うほどである〉
朝井が痔の痛みのあまり、「何で私のお尻だけ痛いの!?」と道行く人に詰め寄りそうになったり、「この著者は肛門がキレイだから」というだけで帯コメントや文庫解説の依頼を断ったりしそうになったのは先にご紹介した通りだが、いったん痛み始めると四六時中それについてしか考えられなくなるのも共通する「痔あるある」のようだ。
実は、さくらももこにも痔の苦しみを綴ったエッセイがあるのだが、彼女は『さるのこしかけ』(集英社)のなかで、お尻の痛みがうずき出したら買い物中であってもお尻のことばかり考えてしまうと綴っている。
〈私は気もそぞろになり、一日の生活時間の中で、尻の穴のことを考える時間がかなり増えてしまった。買い物に行こうとしてキンチャク袋を見たりすると尻の穴を思い出す。街を歩いている人の後ろ姿を見ても「あの人の尻の穴はどうだろうか」などと思ってしまう〉