しかし幸子はスーパーでの買い物中に尿を漏らしたり、人格が変わったように怒りっぽく暴言を吐くようになる。そして入浴、着替えもひとりでできなくなった。次第に茂のことも誰だかわからなくなる。かつて仕事から帰った茂を包み込むような笑顔で癒してくれたという妻は、もう別人のようだった。さらに夜はあまり眠らなくなり、大声で叫び近所からも苦情が来るようになる。そのため茂は夜中に幸子を車に載せ、ドライブをする毎日。茂がヘトヘトになるのは当然だ。8月22日深夜。幸子は茂をしつこく罵った。「お前みたいなもんは帰れ」「お前はどこの誰や」。
〈幸子はとうとう狂ってしまったのだろうか。それとも、本当に自分を憎んでいるのだろうか。
寝苦しい熱帯夜だったので、幸子の首には保冷剤を包んだタオルを巻いていた。茂は衝動的に、タオルの両端をそれぞれつまみ、首もとで交差させるようにして引いた〉
茂はその後、大量の睡眠薬と焼酎を飲んだが、一命は取り留め、逮捕。保護観察付きの執行猶予判決が下された。
ほかにも脳梗塞と認知症を発症した夫・武(65、仮名)を2年間の在宅介護の末殺害した当時61歳だった山下澄子(仮名)の告白もある。夫は左半身が麻痺しトイレも介護が必要となった。そして1日数十回もトイレに行きたがった。
〈真夜中も武は「おーい」と、トイレに連れて行くよう合図を出すから、何度も起こされた。
身長が150センチもない澄子は身長約170センチの武をよろめきながら支え、トイレに連れて行った〉
夫妻は経済的にも困窮した。入院や治療費で貯金を使いきり、借金もしたという。当然、介護施設を利用するだけの費用はなかった。
そして2007年9月15日、転んで大声で「痛い、痛い」と叫ぶ武を部屋までひきずるように運んだ澄子は、夫の姿を見てかわいそうで、情けなく、気づくと馬乗りになりタオルで武の首を締めていた。澄子は取り調べで検事に「他になにか方法があったやろ」と怒られた際、「検事さんには私の苦しみは分からん」と号泣したという。
また母親の介護で離職し、生活保護も拒否され困窮の中で母親と心中しようとした54歳の男性、交通事故で寝たきりになった母親を12年間介護した末に心中しようとした46歳の無職女性、先天性の脳性まひの44歳の息子を献身的に介護し続け、ついに鬱状態になり殺害してしまった73歳の母親など、同書では数多くの“介護殺人”が当事者やその関係者たちの口から語られている。
そのほとんどが、過酷としか言いようのない家庭内在宅介護の末に、慢性的睡眠不足や、将来への悲観、そして経済的、精神的に追い詰められた結果、最愛だったはずの家族を殺した、いや殺さざるを得ない状況に追い込まれたものばかりだ。