経緯を考えれば、こうの氏が『この世界の片隅に』で太極旗を描いたのは、こうした批判に対する「回答」だったと考えるほうが自然だろう。
それを、自分たちと同じヘイト思想に引きずり下ろそうとするのだから、度し難い。だいたい、ネトウヨたちは一方であの『永遠の0』を「反戦映画」だと言い張っていたのに、『この世界の片隅に』を「反戦映画ではない」として朝鮮を批判しているというのはどういう理屈なのだろう。
だが、今回、『この世界の片隅に』をめぐっていちばん愕然とさせられたのは、この映画に「反戦じゃない」という評価が与えられたことではない。「反戦イデオロギーがないから良い作品」という意見がまるで当たり前のように語られていることだ。
戦争に反対することがなぜ「イデオロギー」になってしまうのか、戦争に反対していないことがなぜプライオリティをもってしまうのか。まったく理解に苦しむが、しかし、戦争のほんとうの残酷さや自分たちの加害性から目をそらしたがっている人たちにとって、この倒錯状況こそが常識になっているらしい。
そして、『この世界の片隅に』はそういう人たちにとって、格好の逃げ場所になってしまったということだろう。彼らは、戦時下の人たちの日常の暮らしを丹念に描いたこの映画の、その暮らしの描写だけをクローズアップし、「戦時下でもふつうに暮らす人たち」という物語に読み替えて、消費しようとしている。
だが、それでも、『この世界の片隅に』のような映画が登場したことは、大きな意味があると思う。この映画はたしかに、戦時下の日常の暮らしを描くことで、戦争の本質から目をそらしたがっている人たちを惹きつけているが、しかし、同時に戦争が日常をどのように変えてしまうのか、そのことに気付かせる力をもっているからだ。
「反戦じゃないからいい」とうそぶいている人たちにも、この映画は、確実に戦争への恐怖を刻み込んでいるだろう。
(酒井まど)
最終更新:2018.10.18 03:46