実は、ミスコンについては、かつてフェミニズムの立場から、性暴力を生み、正当化する構造が内包されていることが指摘されていた。
〈女性を公の場で並べたてて眺める(そして美人コンテストを組織する)という男性の権利は、支配する側にいる現実の地位の現れである。この支配は、結果として性的不平等さを生み、男性の期待に合わないという理由で行われる女性に対する暴力を正当化する。それはまた、女性が男性を性的に刺激すれば、彼女は強姦されても当然だと男性が信じる理由である〉(山口典子「ミスコン・ポルノ・性暴力──暴力としての、みる文化──」 『女性・暴力・人権』学陽書房 所収)
そして、80年代後半から90年代にかけては、地方自治体のほか大学キャンパス内でも多くの反対運動が起こり、一時は開催を中止する大学も続出していた。
しかし、2000年代に入って、ミスターコンテストも同時開催することで“女性に対する差別ではない”として徐々に復活。むしろ最近は「就職につながる」という理由で人気を集めるようになった。
だが、ミスターコンテストも開催しているからミスコンは女性に対する性差別ではないという主張は、根本の問題をまったく無視している。
ミスコンが批判されたのは、男が女を「容姿の美しさ」で競わせることだけでなく、その「美しさ」というものが男性にとって性的魅力を感じる女かどうかに基準があったことだ。とくに批判が高まったころのミスコンは応募の際にスリーサイズを明記させたり水着審査を行ったりと、性的対象としての女の価値を推し量るためのコンテストというべきものだった。「内面や知性も審査対象にする」などというのは批判をかわすために生み出された言い訳に過ぎない。
歴史的文脈を踏まえれば、言い訳を並べ立てるだけで過去の流れをそのまま踏襲する現在のミスコンにも、この批判は当てはまるだろう。だが、80年代末〜90年代におけるミスコン批判はメディアによって「ブスのひがみ」と問題を矮小化され、一方で「男に選ばれる女性は社会で得をする」という価値観は是正されるどころか強まっていった。その「得をする」最たるイベントとして、ミスコンはより女性を男性視点の性的価値によって分断し、女性は男社会的価値を内面化するという、性差別の構造的問題を温存させてきた。
今回、性的暴行事件を起こしたのはミスコンの運営に直接あたっていたメンバーではないというが、慶應の広研といえば「ミス慶應コンテスト」が大看板となっているサークルであることに変わりはない。その内部において女を性的客体として扱う歪んだ価値観が蔓延していたとしても、まったく不思議ではないのだ。