くるりは1996年9月、立命館高校の同級生だった前述の岸田、佐藤、そして立命館大学の音楽サークルで出会った森信行の3人で結成される。
順風満帆に活動を続けた彼らは、まだ大学在学中の98年にシングル「東京」でメジャーデビュー。そしてそんな彼らの初めての不和は翌年、2枚目のアルバム『図鑑』のレコーディング時に起こる。その経緯を岸田はこう語っている。
「『街』のレコーディングの時に、とにかくもっくんのドラムがよくないって思って。やる気もなかったように感じたんかな。まぁ、もっくんは、やる気がある、ないってジャンルの人じゃないんだけど。(中略)で、俺らその時、躍起になってたから。普通なら考えられへんことだけど、『街』ではベーシストでもあったプロデューサーの根岸さんに叩いてもらって」(『くるりのこと』より。以下同)
なぜ、そんな不和が起こったのか? 原因は、デビューから少し時が経ち、学生ノリからプロのミュージシャンへとなっていく過程で、自分たちの技術のなさを痛感したところから始まったらしい。岸田はこう語る。
「当時、俺ら、当たり前に全員技術が足りなかったし。メジャーって場所でやらせてもらっていたけど、プロかっつったら、まだプロじゃないっすよね。そういう段階だったからこそ、技術うんぬんじゃなくて、どんだけその曲にエネルギーをかけられるかであったりとか、どんだけエモーションを込められるかであったりとか、そういうことを一番重視してたんやと思うんですよね。もっくんって、技術的には3人の中で一番持ってる人やと思うんですよ。それもあって、何かこなすっていうか、そういう感じになっていて。多分、もっくん自身の中でもやっぱりそういう二面性みたいなもん、『わかってんねんけど、いけへん』みたいなとこもあったんじゃないかなと。そこで、もっと俺と佐藤が、バンドをうまくもっていくやり方を知ってたら違ったんだろうけど、まだヒヨッ子だったんで。感情論というか、曲に対してのモチベーションが勝っちゃったんですね」
この状況を解消させるため、くるりは大学のサークルの先輩であったギタリストの大村達身を加入させることになるが、森と大村の相性が合わず、バランスはますます崩れていく。今度は佐藤が当時をこう振り返る。
「メンバーが3人から4人になったことで、責任感が3分の1から4分の1になったような感覚がもっくんにあったような気がして。最初のうちはそれも変わるかなって思ってたんだけど、ツアー中、待っても待ってもっていう。そういう感覚は3人の時からあったんだけど、それにいい加減待ちくたびれたっていうのが、そうなった一番の原因やと思います」