確かに、日本の芸人たちは「政治」をテーマにするのがとても苦手だ。前述のように、昨今では情報番組にも多数の芸人が進出しているが、その場で彼らがすることは笑いを生み出すことではなく、お茶の間の視聴者が溜飲を下げるような「模範的回答」を口にするだけだ。そこには、ブリーフに茶色い染みをつけていた「アホアホマン」の姿も、女性アイドルだろうと関係なく投げ飛ばす「爆裂お父さん」の姿もない。彼らがこれまでコント番組で行ってきた論争を呼ぶような行動は、テーマが「政治」になった瞬間、一気に鳴りを潜めてしまう。
翻って、欧米諸国のコメディアンたちが「政治」をテーマにするときの態度は真逆だ。
古くは、ヒトラーを徹底的に揶揄したチャールズ・チャップリン、英国王室、教会、軍人、警察など硬直した権威の欺瞞を茶化し続けたモンティ・パイソンなど、欧米のコメディアンは常に議論を呼ぶような内容を伴いながら笑いを生んできた。
現在、そうした動きの急先鋒として存在するのがサシャ・バロン・コーエンだろう。彼の出世作となった2006年公開の映画『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』は、人種差別、女性差別、同性愛差別といったタブーに敢えて土足で踏み込むことで、現在のアメリカに巣くうグロテスクな「差別問題」の構図をブラックジョークとともにあぶり出してみせた。
彼らが「政治」に向き合う態度は、日本の芸人たちの「優等生」的態度とは正反対のものである。
サシャ・バロン・コーエンの映画は世界24カ国以上で初登場1位を獲得するなど世界的に人気を博しているが、日本において彼の作品は「カルト」の域を出るものではなく、その状態はいまでも続いている。
その理由は、日本の芸人たちが情報番組で「世間の声」の代弁者となってしまう風土と地続きなのは間違いない。サシャ・バロン・コーエンを絶賛し、日本にも彼の存在を紹介すべく尽力し続けてきた水道橋博士は、ウェブサイト「映画.com」のインタビューにこう答えている。
「コメディの力や破壊力を世界中に知らしめている。そこは本当にリスペクト。日本のお笑いに求められている過激さは、アメリカやイギリスとまったく違う。僕はどうしても同調圧力に負けてしまう」
水道橋博士は「同調圧力」と表現しているが、それは詰まるところ、権力を「風刺」して世間に波風を立てるような芸を展開するなという「圧力」だろう。そして、元来「空気を読む」スキルが異常に高く、それゆえにバラエティ番組のみならずあらゆるジャンルの番組に進出していった芸人たちは、空気を読み過ぎてしまい、結果として単なる「優等生」と成り果ててしまう。それは「空気を読む」ことに長けているが故の弱点でもある。