しかも、自粛の嵐は一般市民の生活にまで及んだ。学校の運動会や遠足、個人的な結婚式、クリスマスや正月行事なども中止になる異様な光景が広がった。年末にかけてパーティ類の中止が相次ぎ、ホテルの宴会場は閑古鳥が鳴いた。他にも正月のしめ飾りは販売数が激減、食品売り場からは赤飯や紅白まんじゅうまで消えた。
そして、この未曾有の“一億総自粛”は、89年1月7日、昭和天皇の逝去でピークを迎える。テレビ局ではアナウンサーやキャスターが黒服や喪服を着用し、画面から一切のCMがアウト。新聞からも広告がバッサリとなくなり、電車の中吊りも外された。「週刊文春」(文藝春秋)など週刊誌も、広告面スペースを天皇関係の写真で埋めたり、白紙で構成したりするほどだった。銀座のデパートには天皇の遺影が大きく配置され、街頭のネオンや看板は白幕で隠された。
当然、“自粛ムード”は国民生活に支障をきたし、経済にも多大な影響を及ぼした。たとえば広告業界ではCMの引き上げで「菊冷え」なる隠語まで生まれた。また、なかにはイベントの自粛が引き金となった痛ましい事件も起きた。
当時の新聞によれば、10月には神奈川県の露天商を営む夫婦が、自宅六畳の部屋で、天井のはりにナイロンロープをかけて首を吊って自殺。多額の借金の返済に悩んでの心中だった。夫婦は9月の「秦野たばこ祭」と10月の「伊勢原観光道灌まつり」に出店を計画していたが、いずれも主催者側が天皇の容態に配慮して中止に。「たばこ祭」のために、すでに約60万円の材料の仕入れを済ませていたという。また、同じく神奈川県で、体育祭を実行するか中止にするかで板挟みになり、実行委員長が自殺するという事件も発生している。
昭和天皇というひとりの人間の体調悪化や死去に対し、日本全体がここまでそろって自粛し、生活に多大な影響を及ぼすというのは、あきらかに異常なことだ。しかも、マスコミは率先して“自粛ムード”を作りあげた一方で、かなり前の段階から昭和天皇の「Xデー」に向けて準備を進めていた。たとえば在京民放5社は「吐血報道」の実に7年も前から「Xデー」の放送体制について合意をしていたという。
ノンフィクション作家の保阪正康氏は、こうした昭和天皇の吐血から逝去までのマスコミによる病状報道、そして国民の自粛の状況の本質を「崩御を待つという心理」と表現し、こう続けている。
〈それが近代天皇制が生み出した国民側の異常な心理だという認識はなく、自粛ムードは天皇をしてその存在を現実から切り離す、きわめて危険な発想だとの認識はなかったのである。
こうした事実は、近代天皇制のなかにあって昭和十年代のファシズム体制が天皇をできるだけ国民には実体のある存在とせずに、皇居のなかに閉じこめて神格化することで、軍事を中心とする指導者たちが自在に権力を私物化していったのと似ている。〉(『崩御と即位─天皇の家族史』新潮社)