ドビンズ先生は「かなわぬ夢を抱いたまま中年」になり、子どもに厳しくするのは、たとえば「参観日に立派な教育の成果を披露したいから」などという自分の見栄のためだったりする。「ドビンズ先生の暴虐ぶりはいよいよ本性を顕し、ほんの些細な落ち度にも執念深く罰を与えて楽しんでいるよう」とすら描写される。
だから、この行方不明事件の少しあと夏休み前に、トムたちは、いつも鞭打ちしてくるドビンズ先生に仕返しを計画。ドビンズ先生のヅラをとってハゲ頭をさらして笑い者にして、見事復讐を果たす。そして夏休みが始まり、ドビンズ先生は物語の後半からは退場。先生の正しいしつけによってトムが反省するどころか、鞭打ち先生のほうが子どもたちに退治させられてしまうのだ。
つまり『トム・ソーヤーの冒険』は、太田が語ったような「正しいしつけ」とか「反省」とは無縁の世界。というより、しつけとか、道徳とか、公序良俗とかのバカバカしさを暴き出し、教訓めいた子ども向け小説のアンチテーゼとして書かれたものだ。
件の行方不明葬式事件でも、それまで「鞭打ちでは甘いくらいだ」と怒ってばかりいた大人たちが葬式になったとたん、少年たちの美徳や愛すべき性格を回顧するという“手のひら返し”をおもしろおかしく描いている。いたずらっ子のトムは、いたずらっ子なまま、むしろ悪ガキだからこそ、財宝を手に入れ、そして大人にならないまま物語は終わる。
アメリカの文芸評論家レスリー・A・フィドラーは『アメリカ小説における愛と死』(新潮社)のなかで、トムの弟シドのような品行方正のいわゆる良い子をgood good boy、トムのような悪ガキをgood bad boyとして、以下のように論じている。
「グッド・グッド・ボーイは母親が彼にやって欲しいと望んでいるふりをしていることをやる、つまり、親の言うことをよく聞き、従うのであり、それに対して、グッド・バッド・ボーイは母が本当に彼にやって欲しいと思っていることをやる、つまり、噓をついて、親の胸を少し痛ませ、許してもらうのである」
また、翻訳者の土屋京子氏は、good bad boyについて、こう解説している。
「グッド・バッド・ボーイは親の深い欲望や社会の偽善を見ぬく。すなわちグッド・バッド・ボーイは反抗を通じて、空虚な道徳を拒否し、より人間として本物であろうとするのだ。そしてグッド・グッド・ボーイよりも、まんまと周囲に愛されるのである」(『トム・ソーヤーの冒険』(光文社古典新訳文庫)解説より)
トム・ソーヤーは「成熟して大人になることは必ずや社会との妥協を伴う以上、堕落であり、最高の人生とは生涯、少年の心を保ち続けることにある」(土屋氏)という、いまだにアメリカで根強い価値観を体現した存在なのだ。
だからこそ、作者のマーク・トウェインはこの作品を「かつて子どもだった大人にも読んでほしい」と巻頭で宣言している。