本サイトでも以前から報じているように、『永遠の0』について、高畑勲監督は「昨今の“良心的な反戦映画”は、家族を守るために戦地へいくことを強調するけれども、それはお国のため、天皇陛下万歳では、今の人が共感できないから、そのかわりに客の同情を得るため」と指摘し、それを“反戦”とするのは「詭弁」であると批判。また、『「永遠の0」を検証する ただ落涙するだけでいいのか』(秦重雄、家長知史/日本機関紙出版センター)という本のなかで、太平洋戦争中に海軍の水上特攻隊に所属していた岩井忠熊氏も「架空の物語という感じがしますね」と指摘するなど、各所から作品として疑問の声があげられている。
松江氏もそのような点を指摘しつつ、さらにこう続ける。
「『永遠の0』を見て、分かりやすくしているが故にすごくなにかを隠している都合のいい映画で、SF的、架空戦記ものみたいだなって」
『永遠の0』のような映画が超大作映画としてもてはやされる一方、しかし、『野火』のように「隠している」ものを暴くような戦争映画は自主製作・自主配給のかたちにならざるを得ないのが現状だ。
その「隠している」ものとはなにか? それは、戦争において「ヒーロー」などいないということ、そして、戦争に参加する者は被害者であると同時に加害者でもあるということである。塚本氏はこう語る。
「自分がやるべきは、戦争を加害者の目線で描くこと。戦場で殺されないようにするには相手を殺さなければならない。それが戦争なのだっていうことを描かなければという思いがずっとあったんですね」
教会で出くわしたフィリピン人女性を殺してしまったり、飢えに耐えかねての人肉食が描かれたりと、『野火』に描かれる戦争は、なにひとつとして格好いいものではなく、はっきり言っておぞましい。でも、映画はそういう場面こそ描くべきだ。なぜなら、それこそが戦争の本質だからだ。しかし、現在、そのような映画をつくることはどんどん難しくなっていると塚本氏は言う。
「以前は同じ題材を扱ったものでも多様な作品があるのが当たり前で、もっといろんな角度の映画があってしかるべきなんですけど。もっと言うと、『野火』なんてちょっと前は非常に普遍的なテーマだったのですが、なぜか今つくると、とても何かに抗っているような雰囲気もあり、なんでかなぁ、と思いました」
この「とても何かに抗っているような雰囲気」とはなにか。2015年8月17日に塚本氏がゲスト出演した『荻上チキ・Session-22』(TBSラジオ)ではより具体的にその正体について語られていた。