また、毎日新聞同年2月4日付には、民間研究者による世論調査の結果が掲載されている。これは現在と比べて回答の母数(2400通)こそ少ないものの、当時の世論を推測する上では貴重な調査だ。たとえば天皇制については、〈政治の圏外に去り民族の総家長、道義的中心として支持〉(45%)、〈君民一体の見地より政権を議会と共に共有する体制において支持〉(28%)に対して、〈現状のままを維持〉はわずか16%という結果だった。
ようするに、少なくとも、天皇制をほぼ明治憲法のまま維持する松本案は国民にとって受け入れられるものではなかったのだ。
しかし、改憲タカ派は、あたかも、GHQが民意を顧みずに草案をつくり、それがそのまま日本国憲法になったというふうにミスリードする。これも経緯をきちんと検証すれば、事実でないことは自明だ。
毎日新聞による松本案のスクープの2日後、マッカーサーは、ポツダム宣言の内容に一致する別の草案の作成をGHQ民政局に命じ、そして、2月13日に日本政府に提示した。その上で日本政府が修正した草案が3月6日に閣議決定を経て翌日発表、続いて4月10日に衆院の総選挙が行われたのちに国会議員らによる審議・修正がなされて、10月7日に確定した。
つまり、GHQ案はそっくりそのまま日本国憲法になったわけではなく、戦後初の男女普通選挙で選ばれた議会での議論を経由して制定されているのだ。そして、その事実こそ、日本国憲法が、当時の日本国民の意識に大きく影響されていることを意味している。
たとえばここで、昭和史研究の第一人者・半藤一利の弁をひいてみよう。1930年生まれの半藤は、作家・北康利との対談のなかで、その“実感”からこう述べている。
〈でも、国民全体が望む憲法というのは、日本ではあり得ないわけですよ。GHQ案を見た日本側が抵抗しようとすると、アメリカは「では、日米両案のどちらをとるか、国民に投票させよう」といいましたね。それに対して、日本側が尻込みしてやめちゃう。ぼくは当時まだ子どもでしたけれど、あのころの国民の心情からすると、GHQ案のほうが勝ったと思います。残念ながら、日本国民は日本案を選ばなかったと思います。〉【脚註1】
半藤が言及している「国民投票」には歴史資料が存在する。先に述べた通り、日本政府側にGHQ案が手渡された2月13日には、すでに幣原内閣には総選挙の構想があった。アメリカ側の公式記録にも、GHQ民政局局長だったコートニー・ホイットニーが、GHQ案を踏まえた草案を内閣が国民に提示しない限り〈最高司令官は、この憲法〔草案〕を成立させる機会が国民に与えられるよう、直接国民にこの憲法〔草案〕を示して、間もなく行われる選挙戦でこの件を主要論点の1つとするでしょう〉という発言をしたと記されている【脚註2】。