発端は、このところ注目を集めている「保育園落ちた日本死ね」の匿名ブログに対し、斎木氏が3月10日、ツイッターで「#保育園落ちたの自業自得だ。」というハッシュタグをつくり、こんな投稿をしたことだった。
〈政治家の後援会には常に老人ばかり。加えて政治家に毎日のように陳情。そして何より必ず選挙に行く。若者が声をあげるのは困った時だけ。次に落ちるのは保育に無頓着な政治家達だ。そう脅しをかける覚悟があるのか。〉
このツイートに対して、「待機児童問題に直面する保護者たちに責任を押し付けるものだ」と批判が殺到。斎木氏と安倍首相の関係も改めてクローズアップされ、「安倍首相への援護射撃だろう」「こんな人物が高校生の会議を仕切っていいのか」と炎上状態となったのだ。
その後、斎木氏は〈問題提起のためのタグです。保育園に落ちた当事者が自業自得という意図ではなく、そういう状況を作り出すことを許してしまった有権者全体の責任も考えようとそう言いたかったのです。〉などと釈明したが、一方で、〈権利を行使するための普段の努力は誰しもに求められると思います〉〈政治家の責任であり、有権者全体の責任でもあると思います。そこに残念ながら保育園の親も含まれると思います〉などとも強弁。
また、安倍首相との関係を指摘されていることについても、〈僕が「安倍総理と縁戚」×「自業自得」=「庶民切り捨て」っていうステレオタイプから一歩たりとも思考を脱することができないんだな。〉〈はっきり言って反安倍の方々は人種差別に近いことをなさっていると思います。〉と反論した。
それこそ安倍首相や安倍応援団とそっくりの物言いで笑ってしまうが、それはともかく、斎木氏は民主主義というものを完全に勘違いしている。
斎木氏は待機児童問題で声を上げている保護者が「これまで選挙も行かず、政治にも興味を持たなかった」ための自業自得だと切り捨て、「声をあげるのは困った時だけ」と非難しているが、国民は過去にどんな選択をしようが、選挙に行かなかろうが、政府が間違った政策をしたときや自分が困窮した立場に立ったときに、声を上げる権利がある。むしろ、この「批判の自由」「意見表明の自由」こそが民主主義を成立させている基盤であり、逆に、安倍首相や橋下徹市長がしばしば口にし、今回、斎木氏がもち出した「選挙で選んだんだから文句を言うな」こそ、ヒトラーと同じ、独裁者丸出しの論理なのだ。
だいたい、有権者が保育園や育児問題をどうにか解決してほしいと考えたとして、いまの日本の選挙制度でそのワンイシューを政治に反映させることが可能なのかどうか、ちょっと考えてみればわかることだろう。むしろ、選挙なんかより批判意見の拡散やデモのほうが政治を動かすことがありうるのは、それこそいまの保育園問題に対する安倍政権の慌てようを見れば明らかではないか。