なぜ「春画」はこのような女性側からの性の眼差しを獲得することができたのか。日本文学を研究するロバート・キャンベル氏は、前掲誌のなかでその背景をこう分析している。
「絵師は男性が多いですが、春画は商品として本屋さんが営利目的でつくるものが多かったわけですから、どういう需要があるのかというのは十分に考えられてつくられているわけです。そう考えると、十八世紀や十九世紀のヨーロッパの性的な芸術がたくさんありますが、それと春画は異質なものだと思います。そこには大きな消費者として女性の存在があらかじめ意識されているからです。女性の目線というものが画の構図から読み取れることや、実際の消費者に女性が多かった。ですから、女性が春画を所持することの目的が男性を喜ばせるためということばかりではなくて、むしろ自分や女性同士で見て楽しむことこそが目的だった。叔母さんからや母から娘や女中仲間の間などで受け継がれたり貸し借りされたりしています。男性的なまなざしだけで女性が客体的に描かれているということは、実際にものに即して見ていくとありません」
「春画」のなかに女性蔑視的イデオロギーがないのは、ロバート・キャンベル氏が言うようなビジネス的な側面も確かにあるだろう。しかし、それ以上に重要なのは、江戸時代において、性にまつわることはタブー視して隠すようなものではなく、むしろ大っぴらにして祝うべきものとして捉えられていたということである。
例えば、開国直後、日本を訪れた外国人は日本人が混浴で風呂に入っていることに大変驚いたという有名なエピソードがあるが、こういった風習をはじめとして、日本には男女問わず、「性」を肯定する風土があった。前述の上野千鶴子氏と田中優子氏の対談ではこんなことが語られている。
田中「お風呂の混浴もそうですし、行水もそうですし。裸でいることが気にならない社会や時代だった。そうしたことは文化に大きな影響を与えていると思います。私がよく例として挙げるのが井原西鶴の『好色一代男』です。はじめのころ主人公の世之介が六歳なのにラブレターを書いて家の女中を誘惑しようとする場面があります。次の日に、その女中は世之介の母親と父親にその話しをするとものすごく喜んでみんなで笑うというシーンがあるんですね。これは江戸時代の空気のなかで自然なことで、性に興味を持つことはいいことだという考え方です。性に対するこうした肯定感というのは春画にもありますね」