そう、罪もないのにハメられクビになった冤罪の教師が、殺人という罪を犯した生徒たちを罰する“正義の復讐劇”という設定のなかだからこそ、義家氏は堂々とファシズムそのものの思想を肯定的に描くことができる。小説によって教育のあり方を問うているのではなく、小説を利用して暴力や思想統制を是認しているのだ。事実、本作で「恐怖で相手を支配する」と二宮が語ったあと、その話を聞いていた同僚の片桐に「恐怖、か。そうだな、それしかないよな」と同意させている。
しかも、この小説の結末は、教室に監禁された子どもたちが二宮の長時間に及ぶ暴力を含んだ「授業」に感動して、「俺、その思いにこたえてーよ!」などと涙を流しながら叫び、更生(?)する。そして、なぜか唐突に校舎に火が放たれ、二宮は元生徒らとともに避難するのだが、ひとり教室に取り残された宿敵たるヨウコを助けるため、二宮は炎が立ち上る校舎に突入したところで、ジ・エンド。裏切った生徒のことも身を挺して守ろうとする熱血教師の物語というオチだ。まるでエロパートなどなかったかのような振り切り方である。
ちなみに、この小説の発表時、義家氏を担当した「小説宝石」の編集者は、「テーマは(義家)先生が一番書きたいこと、“教育(現場)の闇”でした。教師にも、生徒にも、親のなかにも闇があり、その闇は深いということを強調したいとのことでした」(「週刊現代」08年4月12月号より)と語っている。だが、誰より闇が深いのは、溢れんばかりのリビドーや実体験エピソードを絡めながら、暴力による思想統制の肯定を図々しくも小説として世に発表した義家氏本人だろう。
なお、本作「路上の箴言」とその続編は結構なボリュームなのだが、単行本化はされておらず、義家氏の公式ホームページからも存在を抹消されている模様。ようするに“黒歴史”なのである。
文科副大臣が、過去に生徒を拉致監禁し、暴力を加え、「道徳」の押し付けと恐怖支配を肯定する小説を書いていたとなれば、いくらフィクションといえども問題あり、と言わざるをえない。なぜならば、彼はいま、こうしたファシズム丸出しの思想を実際の教育界に実装することのできる立場にあるからだ。
ぜひ、義家センセイには、国民の目の前で、本作の意図をご説明いただきたいものである。
(宮島みつや)
最終更新:2015.10.26 08:30