実際、小説でもこの教師による暴力支配が肯定的に描かれている。途中、何の脈絡もなく、二宮が元同僚教員「片桐」にこんなトンデモ教育論をぶつシーンが登場する。以下、引用しよう。
〈片桐は爪が掌にめり込むほど、強く拳を握りしめた。
「なあ、二宮、それで、お前はいったいあいつらに何を教えたいんだ?」
二宮は、瞳を閉じ、少し考えた後、片桐を見つめて断言した。
「道徳、だ」
「道徳?」
「ああ。人としてのあるべき姿を、果たすべき責任を、この存在をかけて伝えたいんだ。
戦後教育は重大な過ちを犯してきた。多様な価値観、などと詭弁を使って、子供たちに共通の倫理観や道徳心を説くこと、いや、押し付けることを放棄してきた(中略)。」
(略)
「それが間違いだったとお前は思っているのか?」
「そう、だ。教育とは、突き詰めれば価値観の押し付けに他ならない。もっと丁寧に言えば、愛情に基づいた価値観の押し付け、だ。子供たちが当たり前のようにインターネットにアクセスできるようになった現代、未熟な子供たちの未熟な価値観を認め、信頼し、作り話の副読本を読ませて道徳を誤魔化す。それは『教育の自殺』といっても過言じゃない」〉
出た!“戦後教育がすべての元凶論”。詳しくは本サイトの過去記事をご覧いただきたいが、義家氏はこれまで、いじめ問題や不登校、学力低下、モンスターペアレンツの増加、性教育の内容、若者の年金未納などなど、今、起きている教育問題はすべて“日教組と戦後教育にある”と断じてきた。義家氏はその持論を二宮に語らせ、「道徳」を押しつけろ!と声高に主張するのだ。
さらに、呆気にとられるのは、同僚の片桐から「本当にお前の言うことに心の底から耳を傾けてくれると思うか?」と尋ねられたあとのやりとりだ。
〈「無理、だろうね。価値観の押し付けを通用させるためには、前提となるものがある。さっきも言ったけど、一つは愛情が伝わっている、ということ。でも、今の状況下ではそれは不可能。僕自身も、彼らに愛情を抱くことはできない」
「ならば、どうするんだ?」
「価値観の押し付けを通用させるもう一つの方法、それは、恐怖で相手を支配すること。だから、こんな手荒な方法を選んだんだ」〉
「多様な価値観」は否定し、「倫理観や道徳心」を押しつけるためには「恐怖で相手を支配する」──。どんなディストピア小説だよ!?とツッコみたくなるが、タチが悪いのは、これを書いている本人にディストピア意識がまったくないことだろう。